会津の歴史
会津近世の開幕

◆九戸政実の反乱

 秀吉が京都に築いた聚楽第を中心に政宗が秀吉と氏郷を前にして腹芸の対決をしているさなか、
奥州ではまたもや反乱が起きた。今度は陸前よりもさらに北の、陸中南部地方一帯に勢力を持つ
九戸政実が反乱の軍を起こしたのである。氏郷はただちに京都を発ち、六月十四日二本松に着し、
黒川に帰って九戸一揆鎮圧のための出陣準備を急ぐことになった。
 一方京都では、旧葛西・大崎両領はすでに討伐を終えたとはいえ、これら一揆を暗に支配していた
伊達政宗に対する威圧の意味をも含め、これを機会に奥州各国への再仕置を徹底させるべく、秀吉
は六月二十日、九戸一揆討伐のための軍割を定め、これを公布した。
 それによると、
一番 羽柴伊達侍従(伊達政宗)
二番 羽柴会津少将(蒲生氏郷)
三番 羽柴常陸侍従(佐竹義宣)
四番 宇津宮弥三郎国綱
五番 羽柴越後宰相中将(上杉景勝)
六番 江戸大納言(徳川家康)
七番 羽柴尾張中納言(豊臣秀次)
横目 石田治部少輔三成
横目 大谷刑部少輔吉継
で、浅野長政を総奉行とする十万騎を越す大遠征軍であった。この軍割で一番伊達政宗は旧葛西・
大崎の一揆勢討伐に当たることになり、九戸一揆討伐の総大将には氏郷があてられた。七月十三日
氏郷は九戸一揆出陣に際し十七条の軍令を定め、鳥居四郎左衛門と上坂源之丞から全軍に下知
させた。
 その法度条々なるものは、次の通りであった。
    法度條々
ソナヘくの者共他ノソナエヽ一切マシルヘカラサル事
武者押ノ間道通ノ家エ一切ハイルマシキ事
用所不申付者上下ニヨラスワキ道スヘカラサル事
宿トリ遣間敷事付宿奉行次第ニ可請取事
武者ノ間馬上下下鑓持等至迄高声高雑談スヘカラサル事
鳥類畜類ハシリ出ルト云トモ高声ヲシ一切追マワスヘカラサル事
武者押之間高笑上下共スヘカラサル事
喧嘩口論仕者双方理非ニ不立入可為曲事候事
クミくヲハツシヲモイくニ陳取候事可為曲事候事
於野陳ハ一夜陳タリトイフ共柵ヲフルヘキ事
武者押ノハヤサ太鼓次第タルヘシ留タイコヲ能聞候テ田ノ中河ノ中橋ノ上タリトイフ共フミトマルヘキ事
先手其外イツレノ備手ニ相トイフ共カチマケニヨラス無下知以前ニスケ候事可為曲事之事
城攻又ハ合戦ノ時足軽等ニ至迄下知不申付以前軍取結候ハヽ可為曲事旨可申付候事
馬トリハナシ候者曲事タルヘキ事
火ヲ出スモノ可成敗トラヘハツシ候ハヽゲシニンヲ可行事ふ陳ハライスヘカラサル事
ハホリせウくヒノ外ハサシモノサシ候タ者曲事タルヘシ付鑓シルシコソマノ事
前タテモノヲナシコトクソロエラルヘキ事
七月十三日                       氏郷
鳥井四郎左衛門トノヘ
上坂源之丞トノへ
 かくて七月二十四日、一番蒲生源左衛門以下十三番の左蒲生喜内に至る三万余騎の陣立てによって
九戸城をめざして出陣したのであった。だがこの討伐は思いの外の苦戦を強いられ、九戸城を包囲した
のは九月に入ってからであった。そして籠城兵の糧食、矢玉尽きて開城を申し出るところを城兵全員の首
を打ち、秀吉による天下統一のための戦いはこの九戸一揆討伐をもってようやく終わりを告げるのである。
 会津移封後、息つく暇もない三度にわたる出陣であったが、この勲功によって氏郷には政宗の本領で
あった伊達五郡があたえられ、政宗には代わりに旧葛西・大崎の所領が与えられ、陸前岩出山城
(宮城県岩出山町)を本城とすることになった。
 氏郷は新加増の結果、三十六歳にして徳川家康、毛利輝元に次いで天下の大禄百二十万石の
大大名となった。
 十月十三日、黒川に帰着した氏郷は、信賞必罰、勇士・功労者を遇するのに千金を惜しまない人で
あったから、重臣たちが知行の割り替えを行おうとするところを、いやそれは自分でするといって、一万石
という者に対しても二万石、三万石と配分したために石高は忽ち不足してしまった。慌てた重臣たちは、
そんなふうでは下々の者にまで知行を配分することはできませぬ。ましてや御蔵入分は全く無くなり、
これからの軍役などどうなさるおつもりですかと言われ、そうか、それではお前達で分配しなおせと言った
という話が残されている。このときの仕置によって城持ちとなった重臣は『蒲生家支配帳』によると
七万石 長井郡米沢 蒲生四郎兵衛
五万石 白石郡白川 関右兵衛
五万石 田村郡守山 田丸中務大輔
四万石 苅田郡白石 蒲生源左衛門
三万八千石 安達郡二本松 町野左近
三万石 安達郡塩松 蒲生忠左衛門
七千石 越後国津川 北川平左衛門
一万石 下長井郡中山 蒲生左太夫
七千石 下長井郡小国 佐久間久左衛門
一万石 南山郡南山 小倉作左衛門
一万二千石 山郡塩川 蒲生喜内
一万一千石 信夫郡福島 門屋助左衛門
一万石 岩瀬郡長沼 蒲生主計
以上十三名で、この知行高だけでも三十四万五千石であった。この他に一千石以上の旗本の数は
百四十名、しかもその中には一万石の大名格の者が二人おり、惣高百二十万石、その中で蔵入り分
は僅かに八万石に過ぎなかったという。
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