会津の歴史
会津近世の開幕

◆大崎・葛西の乱を平定

 氏郷は新領内を見聞する暇もなく、奥州仕置のために出陣しなければならなかった。八月の中頃
には大崎氏の居城である中新田城を接収、続いて岩手沢城をも接収した。葛西氏の本城であった
登米(とま)城では頑強な抵抗に遭ったが、これも無事攻め落とし、八月も終わり頃に一応平定を
終えてようやく黒川城に落ち着くことができた。ちょうどその頃、松坂に残してきた諸将や家族たちも
遠い二百里の道を歩き通して、会津にたどり着いていた。黒川城に落ち着いた氏郷は、新領内の
諸城へはそれぞれ次の諸将らを配置した。
白川城 関右兵衛尉一政
須賀川城 田丸中務少輔具直
阿子ヶ島城 蒲生源左衛門郷成
大槻城 蒲生忠右衛門
猪苗代城 蒲生四郎兵衛郷安
南山城 小倉孫作
伊南城 蒲生左文郷可
塩川城 蒲生喜内頼郷
津川城 北川平左衛門
 これよりやや遅れて二本松城も氏郷の支配下におかれることになり、阿子ヶ島城主蒲生郷成が
新たに二本松城主に、蒲生四郎兵衛郷安が岩瀬郡長沼城主となった。かくて各重臣をそれぞれ
脇城に配し、漸く領内の経営に乗り出そうとしていたやさきの十月末日、大崎氏の旧領と葛西氏
の旧領で、大規模な一揆騒動が発生した。氏郷とともに新しく封ぜられた新領主木村吉清に
対する反乱であった。一揆勢に押しまくられた吉清から助勢を請う急使が届いた。去る八月の
東北仕置の際、秀吉は伊達政宗に対し、もし奥州で一揆が起きたら氏郷軍の道案内に立ち、
これを退治するよう命じていたこともあり、氏郷は政宗に対して直ちに出陣する旨の使者を出した。
先手は十月二十八・九日に出発、氏郷は十一月一日に出陣する予定であったが、その日は
大雪のために出陣できずにいると、家康の援軍はすでに進発したとの報せを受け、
「相働かず内に居申し候ては男もならず」
と大雪を冒して勇躍出陣したが、その陣立は次の通りであった。
一番 蒲生源左衛門 蒲生忠右衛門
二番 蒲生四郎兵衛 町野左近将監
三番 梅原弥左衛門 森民部丞 門屋助右衛門 寺村半左衛門
四番 細野九郎右衛門 玉井数馬助 岩田市右衛門 神田清右衛門
外池孫左衛門 河合公右衛門
五番 蒲生将監 蒲生主計助 蒲生忠兵衛 高木助六
中村仁右衛門 外池甚五左衛門 町野主水佐
六番 佐久間右衛門 佐久間源六 上山弥七郎 水野三左衛門
七番 鳥居四郎左衛門 上坂源之丞 布施治郎右衛門 建部令吏
永原孫右衛門 松田金七 坂崎五左衛門 速水勝左衛門
八番 小姓
九番 馬廻
十番 関勝蔵
 これらの将のもとに、六千騎の軍団はその夜猪苗代城に一泊した。城主の町野左近将監繁仍は、
「この寒天に佐沼へ向かうのは人馬の疲労も多く、勝利も得難いかもしれませぬ。来春の雪解けを
待って御出馬なされたら」
と諌めたが、氏郷は
「秀吉公より木村父子とは親子の思いを成せと仰せ置かれしを、その甲斐もなく木村を討たせては
末代の恥辱なるべし」
と、翌朝には再び軍容を整えて、磐梯颪の雪の中を木村吉清父子の立籠もる陸前国佐沼城
(宮城県迫町)に向けて進発していった。
 伊達軍の一万五千騎は、佐沼城の案内役として杉目(福島市)から合流してきた。しかしその
行動には極めて不審な点が多く見られた。行く先々の一揆勢の背後には、どうも政宗の操る糸が
あるらしかった。例えば、木村吉清父子が立籠もる佐沼城へ至る途中には、高清水城という
一揆勢の小城が一つあるだけだといわれて進んでゆくと、次から次へと敵城がたちはだかる。
そしてしかもそれらの諸城はすべて政宗と連絡があるように思われた。またあるときは、陣中の
茶室に招かれて緊張するような場面もあった。
 またそうかと思うと、先導役である筈の政宗が突然病と称し、氏郷の軍を先に立てて、自分は
その背後に廻って進軍した。氏郷は政宗のこうした行動をあやしみ、その半数を背後の伊達軍
の警戒に割きながら進むと、果たして前方には突如として鉄砲を撃ち出してくる名生(みょうう)城
が立ちはだかった。行手をはばむ一揆勢と、背後から迫る伊達勢。酷寒に苦しむ蒲生軍を
挟み撃ちにする謀略であることはあきらかであった。もはや猶予は許されない。速攻あるのみと
判断した氏郷はその半軍を伊達勢の押さえとして割きつつ、名生城に猛攻を加えた。
 まず氏郷の小姓でまだ十七、八歳の北川という侍は、迫り寄った城門で第一の敵兵を一刀の
もとに斬り捨てて首をとると、これをみた蒲生家中でも猛者で鳴らした上坂源之丞・西村左馬允
など四人の侍が一番首を若者に取られたことを口惜しがり、ともども奮い立って突進して次々
に敵を斃して首級をあげると、まだ童顔の残る十五歳になったばかりの那古屋山三郎の働きも、
抜群であった。『氏郷記』にも
「白綾に赤裏打ちたる具足、色糸をもって威したる鎧を着し、小梨打の甲に猩々皮の羽織にて、
手槍提げて城内へ駈け入り」
とあるように、人目を引くきらびやかな鎧すがたで大勢の敵を蹴散らかしたのである。
 こうして名生城の敵を散々に切り立てたが、味方の損失もまた多きかった。道家孫一・
粟井六右衛門・町野新兵衛・田村理介などの名のある侍や、その他の者が討死し、また
手負となった。けれども蒲生勢の討ち取った首は実に六百八十にも達し、この時の首塚というの
が今に残されている。 ところがその夜、思いがけないことが起きた。政宗の近侍である山戸田
八兵衛と、牛越宗兵衛の二人が、政宗自らが一揆勢の諸将に宛てたという陰謀計画の書状
を持参し、名生城に入った氏郷のもとへ寝返って来たのである。氏郷はその書状をみて驚いた。
そこには機会をみて茶席などで氏郷を毒殺する計画や、仮病を使って蒲生の軍を単独で前へ
進めること。名生城から蒲生攻めの合図の狼煙を揚げること。一揆の各城はそれぞれ政宗の
下知に従って行動することなどが細々と書かれていたのである。
 氏郷はさっそくこの事を秀吉に報告すると、天正十九年(一五九一)一月一日名生城を
出立し、いったん黒川城に帰城したのち、一月二十六日に二本松城で浅井長政と会って、
共に上洛の途についた。
 政宗もまた、その申開きのための上洛ということになった。このときの政宗のいでたちは
死に装束に金箔を張り付けた磔柱を押立てての物々しい上洛ぶりで、京の人々をびっくり
させたという。秀吉から政宗自筆の密書について詰問されると、このたび逆心をおこした
山戸田と牛越の二人は幼少の頃から身近く仕えていた侍で、祐筆を勤め、常々代筆を
やっていた者であります。その者が謀叛をした理由はわかりませんが、いま見せて貰った密書は
私の字とよく似てはおりますが、花押は私の花押ではありません。私の花押は鶺鴒(せきれい)
の形を崩したものを用い、必ず目を入れております。しかるにこの密書にはその目が無い。
つまりこの密書は二人の偽造したものであるからですといって弁解した。
 秀吉が他の政宗の書状を引き出させてみると、まさにその通りであったばかりでなく、他の詰問
に対しても少しも悪びれるところがなく、逐一明確に答弁した。秀吉も、彼が上洛のうえかくの
如く陳ぶる上はということで、それ以上は不問とした。
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