会津の歴史
会津近世の開幕

◆氏郷の社寺政策

 氏郷の寺社政策は、伊達氏の時代よりいっそう整備され、検地に対しても、伊達氏は従来の貫高を
そのまま認めているが、氏郷は石高制を採用し、社寺領にも厳しい竿入が行われ、多くの社寺領は
一旦領地を没収したうえで、改めてこれを寄進した。諏方神社が百石、柳津円蔵寺が二百石、熱塩
の示現寺が門前百石というように、文禄元年(一五九二)から二年にかけて、社寺のなかでこうした形
の寄進を受けたところが多い。
 氏郷はまた、会津城下の大拡張を行い、郭内の寺院はその際にほとんど郭外に移転させるが、従来
言われている軍事的な面というのはさほどではない。
 政宗によって保護された塔寺八幡の社領を没収したり、逆に政宗によって荒らされた興徳寺に保護
を与え、離山した僧の心安を再び住職とし、禄二百石を与えるなど独自の立場から社寺領の没収と
新設、保護をはかり、郷里の日野から、妙心寺派の僧侶をつれてきて新寺を建立したりしている。
成願寺などもその一つである。また氏郷自身、キリスト教に帰依の身でありながら、父賢秀のために
恵倫寺を建て、母を成願寺に葬って二百石を寄進しているが、これは父母の信仰を尊重してのこと
と思われる。
 何れにしても氏郷の代になると一部の例外はあるが、社寺の多くが新設、又は復興したため会津の
仏教界には活気があふれ、城下にならぶ桃山風の建築は、城下に美観を添えることになった。
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