会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(22)◆
河原政心

著者/河野十四生
 河原政心は会津藩中〜後期の礼式家です。遠祖は近江の人で蒲生家に仕えました。蒲生家断絶後は信州高遠藩主、保科正之に仕えます。寛永13年(1736)、正之が高遠から最上20万石で移封されるとこれに追従、さらに寛永20年(1743)、会津23万石の藩主誕生にも従って会津へ。その子孫河原成安の子として宝麿12年(1762)に生まれました。
 18歳から24歳までに槍、弓、剣術などに頭角を表わし、五代藩主、容頌上覧の節には、その技倆を発揮して御酒を賜わります。寛永2年(1790)、29歳の時養蚕を世話するため藩外にまで足を伸ばし、翌年、桑の苗木を調達する役目を仰せつかり、福島辺りまで出向いて栽培技術を学んで帰国します。32歳の時、他国に出張して養蚕技術を学び、会津の養蚕業振興に尽くしました。
 かたわら礼式(小笠原流)を学ぶため、江戸行きを命じられます。
 文化元年(1804)、42歳の時、家督(百石)を継いで礼式指南を命じられます。同4年、所属する小笠原流の礼法書六百巻を、完成したばかりの藩校、日新館に寄贈して教育の充実に尽くします。
 これより先の文化2年(1805)、江戸に上り、南蛮国堅昆流の火術の伝授を受けます。秋には、火業を藩主の前で披露し、同4年には、幕府から大筒鋳造の役を命じられます。翌5年蝦夷地防備のため現地に赴き、同7年(1810)には、江戸湾防備のため相模国(横須賀市)に赴き相州御備場鉄砲、その他の兵器御改方として赴任、同年12月には、観音崎に1年間詰めるよう命じられます。同12年(1815)52歳の時、御密事奉行を拝命し、作事奉行も兼ねます。
 天保2年(1831)12月、68歳で死去。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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