会津の歴史 戊辰戦争百話

第九十四話:英国人医師ウィリス

ウィリアム=ウィリスは、一八三七(天保八)年アイルランドに生まれた。エジ
ンバラ大学において医学を修め、ロンドンのミドルセクス病院に勤務したのち、文
久元年(一八六一)駐日イギリス公使館の医員として来日、翌年、生麦事件に遭遇
したときは現場に真っ先に駆け付けた。翌三年八月、殺人首謀者の処刑と二万五千
ポンド(十万ドル)の賠償金要求のために来航したイギリス軍艦七隻と薩摩藩とが
交戦した際にはパドル・スループ(外輪単檣帆船)アーガス号に搭乗して戦闘に加
わった。
ウィリスが初めて京都に足を踏み入れたのは、将軍徳川慶喜が大政を奉還した直
後に、勃発した鳥羽・伏見の戦の時であった。戦端が開かれた時、ハリー・パーク
スら諸外国代表は、この年一月一日から始まった兵庫開港・大阪開市に備えて大阪
に待機し、戦雲のなりゆきを見まもっていた。慶喜が夜陰にまぎれて軍艦開陽丸で
大阪を脱出した二月一日、ウィリスは、アーネスト・サトウらと一緒に大阪湾の安
治川河口にある天保山の堡塁に行き、京都から送還されてきた会津藩傷兵の治療に
当っていた。
慶応四年(一八六八)四月十三日、ウィリスは大総督府に乞われて横浜軍陣病院
に勤務し上野東叡山の彰義隊の戦や、旧幕府系勢力の抗戦による負傷兵の救護に専
念していた。しかし、戊辰戦争の舞台がしだいに北越・奥羽へと移るにつれて、会
津を中心とする反薩長諸藩の熾烈な抵抗によって征討軍の戦傷兵も激増の一途をた
どるにおよび、ウィリスは新政府の要請に応じて現地にむかうことになった。
ウィリスは、会津征討軍が若松城へ総進撃を開始した八月二十日、筑前藩の護衛
二十五人にまもられて江戸を出発し、転々と各地で治療しながら、若松城が開城と
なった九月二十三日に新潟に到着した。ここに八日間滞在して、百五十名の戦傷兵
の治療と日本人医師の指導を行い、休むまもなく新発田にむかった。
ウィリスはこの会津戦争従軍中、かねてから心痛していた征討軍による無差別な
敵軍捕虜の虐殺問題を、新発田に滞在する北越征討総督仁和寺宮嘉彰からの使者を
通して当局に訴えた。翌日、仁和寺宮はじめ大参謀西園寺公望・参謀壬生基修・薩
摩藩参謀吉井幸輔らに会見した結果、ウィリスの意向は了承され、さらに任務を一
カ月のばして落城直後の若松、および柏崎へおもむくよう要請された。ウィリスに
は年が明けると江戸開市にともなう副領事の仕事が待っているはずであったが、し
かし医師の任務が不偏不党のものでありわが身を挺してヒューマニズムを実践する
ことが日英両国の親善に役立つとの信念から、無給のまま要請に応えて若松まで足
をのばしたのであった。
ウィリスが若松に滞在したのは十月七日から十月十九日までだった。ここで彼は
過去六年のあいだ京都守護職として誉れの高かった会津藩主松平容保父子が、今や
囚われの身として妙国寺から備前藩兵に連行される時の悄然たる情景を目撃したり
いわゆる「世直し」と呼ばれる農民一揆に遭遇したりした。
この従軍旅行中、ウィリスがみずから治療した負傷者は六百人、その他約一千人
の患者に、手当についての処方を指示したが、これら負傷者の内訳は征討軍の兵士
約九百人、会津藩士約七百人であった。ウィリスは往時とおなじコースをたどって
帰路につき、江戸に帰着したのは十一月十六日(新暦十二月二十九日※)のことで
あった。
参考/中須賀哲朗訳『英国公使館員の維新戦争見聞記』
※同じ本のウィリスの報告書に、江戸に着いたのは“十二月二十八日”となって
いる箇所もあります。
次→◆第九十五話:ウィリス博士の見た戊辰戦争◆
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