会津の歴史 戊辰戦争百話

第八十六話:会津落城

明治元年九月二十一日、会津藩主松平容保は軍内に開城を伝え、翌二十二日午前
十時、鈴木爲輔・安藤熊之助らが北追手門に白旗を立て、籠城一カ月にわたる城下
の戦いは終わった。家老梶原平馬・内藤介右衛門を先案内に、藩主容保は世子喜徳
・家老萱野権兵衛を従えて追手門前、甲賀町通りの路上にもうけられた降伏式場に
臨んだ。
西軍からは軍監中村半次郎(桐野利秋)、軍曹山県小太郎らが諸藩の兵を率い、
錦旗を立てて式場に入った。容保は中村半次郎に「謝罪書」を、権兵衛は「戦争責
任は家臣にある。藩主父子には寛大な処置を」と重臣らが連名で記した「嘆願書」
を提出して、式は終了した。
容保は城に帰り、重臣・兵士らに別れを告げ、戦死者を葬った城内の空井戸・二
ノ丸の墓地に花を捧げたあと、薩摩・土佐の二小隊に護られて、北追手門を出て滝
沢村の妙国寺に入った。城中の兵士は九月二十三日、米沢藩士に護られて猪苗代に
謹慎。五百余人の病人・負傷者は城内から青木村に移して治療させ、婦女・老幼・
城外にあって降伏した藩士千七百余名は塩川・喜多方に立ち退かせ、雄藩会津はこ
こに音をたてて瓦解した。
翌二十四日、軍監中村半次郎が入城し目録に照らして鶴ケ城を受け取り、城門に
は錦旗がひるがえった。
こうして会津戦争は終わったが、戊辰戦争自体、薩摩・長州の会津に対する私怨
といった観点からだけで捉えることはできないし、この戦いの勝敗には、軍備の新
旧・優劣の他に民衆の動きも大きな影響をおよぼしたことも否定できない。それま
での封建的な支配に苦しんできた民衆の多くは、封建制の頂点である幕府を倒そう
とする新政府軍に少なからず期待をもっていた。北越後での戦いの際、新発田(し
ばた)藩が東軍に参加しようとしたところ数千人の農民が集まり進軍を阻止した、
というのがよい例である。しかし戦争の被害を直接うけた民衆の動きはもちろん一
様ではなく、会津領内では肝煎(きもいり)たちが、城内に食糧を運んだりして最
後まで藩に協力した。田島村では農民が西軍兵士を山中に誘い込み、竹槍で刺殺し
たりしている。戦時下の極限状態では民衆の考えも対応もさまざまであった。また
兵士たちはというと東軍・西軍とも、相手軍の食糧・宿舎を絶つために沿道の村を
焼討ちしたり、掠奪・暴行などもひんぱんに行ない、兵士の一部は手に負えない無
頼の集団と化した。いつの時代も戦争とは人間を狂わせるものである。
会津藩の降伏を契機として九月二十三日には庄内藩が、二十四日には南部藩が相
次いで西軍の軍門に下り、東北の戦乱は終結し、残るは北海道に逃れた榎本艦隊だ
けとなったが、これには大鳥圭介をはじめ、桑名藩主松平定敬、会津藩家老西郷頼
母、新選組土方歳三らも加わって独立政権を樹立したが、西軍の大攻撃を受け明治
二年(一八六九)五月十八日、ついに降伏して戊辰戦争は終わった。
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