会津の歴史 戊辰戦争百話

第八十五話:籠城婦人白旗を縫う

八月二十九日の長命寺戦後、会津側は融通寺町口、川原町口、花畑口等を確保し

城内から郭外に自由に出入りできるようになっていたが、西軍は、これらの出入口
を抑えて包囲網を縮めるべく九月十四日より総攻撃を開始した。さらに奥羽越列藩
同盟の各藩は続々と降伏、会津藩は全く孤立し、しかも九月十七日の城南の戦い、
及び十八日の西軍高田攻撃戦によって若松城と外部との連絡はいっさい遮断されて
しまった。これによって食糧・武器弾薬の補給は途絶え、藩士の脱走も目立つよう
になり、鳥羽・伏見の戦い以来、会津軍の戦死者は二千九百七十七人(会津殉難名
簿)を数え、城下の三分の二は焼け野原となってしまった。
ここにおいて軍事局は、藩主松平容保の生命は保障するという西軍の寛典もあっ
て降伏を決意、九月十九日に、手代木直右衛門・小森一貫斉・秋月悌次郎を、塩川
村に進軍していた米沢藩の陣営に遣わして、米沢藩を通じて土佐藩に降伏の意向を
伝えた。
この時のようすを、間瀬ミツの日記風覚書『戊辰後雑記』は次のように述べてい
る。
「毎日毎日と暮す内に廿日頃にも相成り、鉄砲の音も薄く相成り、穏かになり候て
も、案じられ候事に候。それより廿日夜と覚え候。内々御城内何やらどよめきわた
り、いか様の事に是あるやと承り候へば、御降伏にも相成り候や、風説もこれあり、
いよいよ右御都合にて米沢藩取扱いの由承り候。九月廿一日、矢玉止めに相成る」
城内の白布はすべて負傷者の包帯として使い尽くされていたため、婦女子達は二
十一日の晩に寄り合うと、白布の断片をかき集め涙ながらに縫い合わせてやっと白
旗を作ったといわれる。そして、翌九月二十二日の朝十時、その白旗は北追手門に
掲揚されて、一カ月にわたる城下の戦いが終り、会津戦争に終止符が打たれた。
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