会津の歴史 戊辰戦争百話

◆第六十六話:山川唐衣とその一族◆

山川唐衣(からころも)は西郷近登之(ちかとし)の娘で、勘定奉行として高名
だった山川重英の子尚江(千二百石)と結婚。十二人の子供をもうけたが、成人し
たのは二葉・大蔵(浩)・三和・操・健次郎・常盤・咲子(捨松)の七人であった。
夫の尚江は末子の咲子が生まれて二ヶ月と経たない万延元年(一八六〇)二月に死
去、唐衣は剃髪して勝聖院と号した。
慶応四年(一八六八)の会津戦争では、娘達や長男大蔵の妻トセと一緒に城内に
入り、女子の総取締りとして籠城戦で活躍した。城内の婦女子は照姫の守護、傷兵
の看護、撃ち込まれた砲弾の処理、炊出し、その他に不眠不休で奔走していた。
九月十四日の西軍の総攻撃の日、本丸の照姫の居室に砲弾が落下して、嫁のトセ
が全身四ヶ所に重傷を負い殉難した。そのときの模様を三女の操(当時十七歳)は
次のように述べている。
「私の姉も、脛(すね)から腿(もも)へかけて一発、脇腹へ一発、右の肩へ一発
と頬へ一発の弾を受けました。脇腹からは血が泉のやうに流れます。殊に、肩に当
った一発は、着物に入れてあった真綿を肉の中へ押込んでしまひました。医者がま
ゐって肩の着物を引出しましたら、弾がポクリと出て、血がドクドクと流れ出しま
した。死者は葬る暇もございませんから、掘っても水の出ない空井戸の中へ泣く泣
く埋葬しました。しかし、姉の死骸は、兄の手兵が大分をりましたから、鎧櫃(よ
ろいびつ)に入れて懇(ねんごろ)に葬っておきました」
(明治四十二年七月『婦人世界』)
また『会津史談』第54号、久野明子(捨松曾孫)「アメリカの資料にみる山川
捨松」には「母(唐衣)・姉・義姉(トセ)そして私も、いつも死ぬ覚悟は出来て
おりました。怪我をして片輪者になるより即死する方を望んでいました。ですから、
私達はいつも母と約束を致しておりました。もしも私達の中で誰かが重傷を負った
時には武士の道にならって私達の首を落して下さいと。ある日私達が大急ぎで食事
をしていると砲弾が部屋の中に落ちてきて破裂したのです。義姉は胸を私は首をや
られました。……早くこの苦しみから救って下さいと苦しい息の下から頼む義姉の
声を聞くことは、とても耐え難い事でした。
『母上。母上。どうぞ私を殺して下さいませ。貴女の勇気はどこへ行ってしまった
のですか。さむらいの妻であることをお忘れですか。私達の約束をお忘れですか。
早く私を殺して下さい。お願いです』でも気の毒に、母は余りのむごさにすっかり
勇気を失ってしまったのです。約束を守るだけの強さは、母にはなかったのです」
とある。
開城して暫くたった明治三年、北海道開拓次官黒田清隆は海外留学生を募った。
唐衣はこれを聞いて大いに喜び、当時僅かに十一歳の咲子を応募させた。そしてそ
の翌年咲子は日本で最初の米国女子留学生の一人に選ばれ、このとき唐衣は「捨て
たつもりで待つ」という親心をこめて、幼名の咲子を「捨松」に改名して海外に送
り出したのである。子供の教育には熱心な人で、その甲斐あって七人の子供達は、
浩・健次郎の両男爵をはじめ姉妹各々名をなして一門は繁栄した。
次→◆第六十六話之二:山川浩(やまかわ・ひろし)略伝◆
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