会津の歴史 戊辰戦争百話

第二十二話:飯沼貞吉を助けた印出はつ

印出(いんで)はつは会津藩足軽の印出新蔵の妻。伜が鉄砲を持って出ていった
きり帰って来ないので、その消息を尋ねて慶山村の百姓渡部佐平の隠れ家を訪ねて
来ていた。慶応四年(一八六八)八月二十三日、薪採りに出ていた佐平は、飯盛山
の南八ヶ森に一丁ばかり踏み込んだところで、そこに倒れている少年武士を発見、
愕いて岩屋に隠れている家族の者達に報せてきた。岩屋には伜を探しに来ていた印
出はつも居り、もしやと思い佐平の長男の妻ムメと共に急いで現場にかけつけた。
そこには一人の少年が倒れており、名を尋ねると「本三ノ丁、飯沼の次男で貞吉、
年は十六歳」と言う。ムメは自分の手拭いを取り出して、貞吉の咽喉の突き傷をし
ばって仮の包帯をしてやると、袋山の岩屋に連れて帰り、箪笥や蒲団の陰に隠して
三日三晩寝ずの介抱をした。だが隠れ家が城下から近いこともあって、時折西軍の
兵士たちがやってきて「敵は(会津兵)はおらぬか!」などと言って家捜しをして
ゆくので袋山の岩屋も安全な場所ではなくなり、貞吉をどこか安全なところに移す
必要に迫られるようになった。そこで佐平は夜半を待って、印出はつと二人で貞吉
を連れ出し、西軍の警備する間隙をぬって滝沢街道を北に横切り、そのまま山沿い
に北に向かって進み、若松の郊外に出たところで一切を印出はつに託し、佐平は若
松に引き返した。
その後ははつと貞吉の二人で、ようやくのことで塩川村の入口東側にある近江屋
という宿屋までたどり着くことができた。ここではつは、三本住庵という町医者を
呼んで来て貞吉の傷口を縫ってもらい、薬をつけてやった。しかし戦禍はここにも
およんでいて隠れ通すことは困難となり、橋爪勇記という者の案内で二人は喜多方
の北方入田付村に落ち、その山中の不動堂に隠れ住んだ。ここに隠れたのははつと
はつの叔父と貞吉の三人であった。そしてその期間は会津落城後の九月二十五〜六
日頃までであった。
こうして蘇生した貞吉はその後藩に戻り、他の藩士と共に謹慎に服した。印出は
つの、その後の消息は不明である。
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