会津の歴史 戊辰戦争百話

第二十三話:白虎隊・安達藤三郎

■安達藤三郎(あだち・とうざぶろう)
小野田助左衛門(四百石)四男。母は中林助左衛門長女みさ子。父助左衛門は物
頭を奉じ、米代一之丁の賜邸に住した。士人の二、三男にして母方の氏、またはそ
の家に縁故ある氏を称する者稀でなかったが、藤三郎もまた安達家を冒した。両家
の関係は不明。
十一歳にして日新館に入学し尚書塾一番組に編入された。文武を好み、しばしば
賞典にあずかった。その人となりは優柔温和。
ある年の四月八日、馬を駆って学友と共に若松の北郊一里余の木流村に遊んだこ
とがあった。村には馬頭観音堂があり、その日はこの堂の例祭日であった。農家の
馬ある者は当日これを飾り、その美麗を競い合い、あるいは堂の周囲を乗り駆ける
などその雑沓ぶりは言うべからざるものがあった。たまたま一農夫があり、酔って
馬を乗り廻し麦畑を蹂躙して狼藉極まりなかった。藤三郎は遠くよりこれを眺め、
忽ち馬首を廻らせた。友人はおおいに訝り、木流村はこれより僅か数丁に過ぎない
のになぜ戻るのかと問うた。藤三郎は笑って答えなかった。再度尋ねると「瓜田に
沓を容れず、李下に冠を整さず」と答え、ついに観世音には詣でないで帰ったとい
う。
戊辰の役において白虎二番士中隊に編入せられ、慶応四年(一八六八)八月二十
二日、西軍が母成峠を破って戸ノ口原に進攻するや、二番士中隊は戸ノ口原に出陣
創を受けて飯盛山に退き自刃して斃(たお)れた。
享年十七歳。法名を義嶽院雄功忠道居士という。

「瓜田に沓を容れず、李下に冠を整さず」出典/文選(もんぜん)
ウリの畑で靴のひもを結べば、ウリを盗むのではなかろうかと疑われ、スモモの木
の下に立って手をあげて冠のまがっているのを直せば、スモモの実を盗むのかと疑
われる。人から疑われるような事は初めからしないほうがよいということ。
『ことわざ辞典』より

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