◆序章1:会津藩と唐太(樺太)警備◆
■田中玄宰の執刀した寛政の改革もどうにか軌道にのり、藩内の治世も上昇気運に |
乗ろうとしていた頃、会津藩は幕府より唐太警備の命令を受けた。 |
■文化四年(一八〇七)の六月、幕府は陸奥の盛岡・弘前、および出羽の秋田・庄内 |
の四藩に出兵を命じ、さらに同五年、今度は仙台・会津の二藩に対して東西蝦夷地を |
守らせる命令を出した。このとき会津に下した達しには、「其方家之儀武威においては |
従来格別の趣」とあった。 |
■会津藩大老田中玄宰は遠征軍の部署を定めた。家老北原采女の隊は唐太に上陸 |
させて大泊に、番頭梶原平馬景保隊は利尻に、番頭三宅孫兵衛隊は松前にそれぞれ |
分駐させることにし、軍将には家老の内藤源助信周をあてて、宗谷にあって全軍を統治 |
させる事にした。一陣六百人は文化五年(一八〇八)一月、雪を冒して出発、本宮・一関・ |
盛岡・七戸・青森と北上し、津軽半島の北端三厩から千石積九隻をもって海を渡り、 |
唐太隊は三月下旬に任地に到着した。 |
■任地にとどまること約三カ月、騒ぎも一応治まったので南部・津軽の二藩が交代警備 |
することになり、七月には帰途についたが、途中船の故障のために鬼鹿(おじしか)に |
上陸。陸路を増毛・江別・箱館と徒歩で縦断し、箱館から船で出帆したものの今度は |
途中で思わぬ暴風に遭い、佐渡や松前、秋田に漂着する者がでるなどした。想像を |
絶する苦難の末この年の十二月二十八日、全軍ようやく帰営する事が出来たのだった。 |
■唐太隊の水陸往復の行程は九百二十八里 (3,712km)、 当時まだ未開の蝦夷・ |
唐太の山野を行軍する苦痛は想像に絶するものがあったが、その頃すでにヨーロッパの |
新しい勢力は、次第にわが国にも及んできており、会津藩もまた、こうした世界の動き |
とは無関係ではなくなりつつあったのであるが、藩政改革の推進者として功績のあった |
田中玄宰はこの年の八月七日、彼ら兵士たちの帰還を待たずにこの世を去っていた。 |
■唐太警備を終えた二年後の文化七年(一八一〇)二月二十六日、今度は白河藩 |
とともに相模湾の海岸警備が命じられた。七月から兵を出して観音崎と三崎に砲台の |
建設を始め翌八年からは鎌倉三浦三万石の地を領有して藩士を常駐させ、文政三年 |
(一八二〇)まで十カ年間にわたって警備の任についた。 |
■山間の盆地にあって全く海を知らない会津藩が、これ以後も度々湾岸の防備を |
命じられているのは、単に譜代の大藩というだけでなく、伝統的な尚武の藩風が頼りに |
されたからであった。 |
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