会津の歴史 戊辰戦争百話

◆序章2:崩れる藩政◆

田中玄宰の亡くなったのを機に学風改変の動きが表面化し、これまで徂徠学派の
儒者であった阿部井帽山や高津泰は江戸に出て林述斎・古賀精里の門に入って程朱
の学を修め、帰国するとこの二人が復古の主唱者となった。文化七年十一月九日、
古学風を改めて純粋程朱の学風に復する旨の発令がなされ、文政三年(一八二〇)
七月七日、これまでの学制は大きく改変され、軽輩の者の入学は一切差し止められる
ことになった。そして阿部井帽山には、学制の改変・規則改正に勤めたということで
晒一反を賜った。
文政五年(一八二二)二月、七代藩主容衆の死によって容住の第三子容敬が
八代目の藩主となった。容敬の在位は三十一年の長きにわたるが、その間、世界
資本主義の進展によって欧米列強の圧力は強く日本にも及ぶようになり、幕藩体制を
反映して重大事件が次々に発生した。
天保元年(一八三〇)は不作で幕をあけた。二年は地震・水害などの天災があり
そして三年はまた不作であった。連年の不作・災害に苦しむ人々は翌年の作柄に
期待をかけたが、翌四年も期待に反し、春から天候不順が続いた。六月になっても
天候は回復せず、十月の収穫期を迎えて農作物は「近来稀なる不作」で天明以来の
大凶作となった。藩は六月から米の他領出しを禁止し、また江戸・越後から
米二万七百俵余、その他の地域から六千俵、大麦二千二百俵余を購入して町方や
郷村の窮民救済に当てた。天保五年(一八三四)は普通の作柄であったが、六年から
九年にかけては再び不作に見舞われた。
天保初年以来連年の大飢饉は、幕藩体勢に深刻な影響を与えた。米の値段は
上がり、日雇や職人中小商人らの生活は苦しくなってきた。不景気による商業のあおり
をうけて職人達の生活は一層苦しくなった。なかには他領に逃げる者もでてきた。
このため「御国産」の出荷が減少するという大問題にまで発展し、重要国産品の
漆器をはじめ、煙草・銅細工・紙・地太物などの江戸での売り捌きは次第に難しく
なってきた。
天保の相次ぐ凶作の中で、幕府は水野忠邦を老中に抜擢した。忠邦は間もなく
幕政建て直しのために一連の改革を実施した。これがいわゆる天保の改革である。
会津藩でも凶作に苦しむ農民にたいし、これまでに貸し付けた米や金のうち
米二万六千俵余、金五万三千両余、銭百九十九貫余を切り捨てにし、町人にも
同様な施策を行って救済にあたった。一方家臣には借知を緩め、生活の困難な者には
救済資金を貸し出し、また武士の金銭貸借については一時的ではあったが、借金の
帳消しもおこなった。これとともに幕府にならって藩政全般にわたる改革をも実施した。
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