会津の歴史
会津近世の開幕

◆関白の会津下向◆

 天正十八年(一五九〇)七月五日、小田原城の陥落によって関東・奥羽もまた秀吉の手中に
収められた。織田信長以来の天下統一の業は、ここにようやく成就するのであるが、秀吉はこれに
先だって小田原の陣営へ遅参した伊達政宗を問責し、先に葦名氏から奪い取った会津黒川の地
の没収を命じ、その城請取りのため木村伊予守清久を先行させ、奥羽の支配をみずから差図する
ために奥羽仕置の拠点として会津黒川を選んだ。
 小田原の落城に先立つ七月三日、秀吉は小田原から会津黒川に至る道普請の法度を出した。
つまり、小田原−会津間に道幅三間の道路を作ること、普請の労働力として沿道近辺の農民を
使役すること、橋は近所の山林から材木を切り出させて架すること、会津までの道筋の休憩・宿泊
の御座所については各城主、ならびに在番の者に申しつけること、その他を定めたものであった。
 垣見彌五郎ら五人の道作奉行は、七月十六日に会津に到着し、会津地方の国廻りを終えた
木村吉清は伊達政宗宛の二十日付書状で、白河−会津間の道橋と秀吉御座所の普請をする
こと、御糧米を進上すること、豊臣中納言秀次が二十五、六日頃に会津下着の予定であること、
黒川の御座所は大かた手配をしたから安心されたいことなどを伝えた。
 こうして、白河−会津間の道普請のことは伊達政宗に仰せつけられた。後に会津黒川(若松)の
城主となる蒲生氏郷もまた、豊臣秀次、浅井長吉、石田三成、大谷吉清らと共に、小田原参陣
の兵四千騎を率いて奥州へと先行した。
 秀吉は七月十三日に小田原城に入り、北條の旧領を徳川家康に与え、十七日小田原を出発
して会津下向の途についた。二十六日宇都宮に到着、伊達政宗および最上義光が召出され陸奥
・出羽両国の措置の議せられた結果、南部信直・佐竹義宣・岩城常隆らに旧領が安堵された。
八月六日に白河到着。翌七日は長沼城に進んだが、秀吉はこのとき長沼の城主・新國上総介の
武勇の誉れ高いことを聞いてこれを引見、その旧領を安堵した。ところが、貞通は喜びのあまり傍らの
者に向かって田舎言葉を繰り返したので、秀吉はこれを聞き分けることができず機嫌を損じた。その
結果安堵のことは撤回となり、貞通は後に蒲生氏郷の家臣となった。
 秀吉は勢至堂・黒森峠、さらに背炙山を越えて九日に黒川に到着した。背炙越えにかかる手前
で駕篭から馬に乗り換え、頂上より会津平野を眺望したという。つまりこの平が、今に“関白平”と
呼んでいる一帯である。
 黒川に到着すると臨済宗の古刹瑞雲山興徳寺が御座所に充てられ、矢継ぎ早に仕置のことが
おこなわれた。大崎義隆・葛西晴信・石川昭光・白河義親ら、小田原不参の衆の領地を没収し、
伊達政宗から没収した会津・岩瀬・安積、さらに石川・白河の諸郡は蒲生氏郷に与えられた。
 黒川下着の翌十日には、奥羽両国の検地についての条規を片桐且元らに出し、十二日には
八丁目城(信夫郡)による浅野長政に朱印状が遣わされ検地の厳格な施行が命令された。その
内容は、検地に関してもし不届の者があれば、一郷も二郷もことごとくなで切りにせよ。山の奥、海
は櫓櫂の続くかぎり念を入れ専一につとめよ、もし各々がくたびれた場合には関白自身が出向いて
強行しょうというきびしいものであった。
 検地の実施については、会津は豊臣秀次、白河およびその近辺については宇喜多秀家、出羽
は大谷吉継と上杉景勝という分担によって進められた。早くから政宗やほかの奥羽諸大名と交渉
のあった浅野長政は二本松に駐留し、蒲生氏郷の会津支配をはじめ、諸大名の領地の監督と
補佐に任じた。また豊臣秀次も須賀川城に駐留し、奥羽諸大名の指揮にあたった。
 秀吉の黒川滞在中、万松山天寧寺第十世祥山(善恕)和尚は、太閤の徒然を慰めるべく六世
天附和尚が請来した寺の什物昆首偈磨筆“達磨図”、同じく牧渓筆“寒山・拾得図”(双幅)、
東坡筆“竹図”などを持参献上したところ、秀吉は「寺宝である。大切にせよ」といって返し戻され、
あまつさえ白銀三拾枚を下賜してその志しに報いられたのだった。
 また、秀吉は徒然のままに家臣数名と滝沢村に駒を進め、稲刈る農民に案内されて、村の東北
一里ほどの処の雁打沢を遊覧したのだった。こうして秀吉の黒川滞在は僅かに三日間だけであった
が、この三日の間に電光石火の奥州仕置をおこない、十三日、黒川城をあとにして帰洛の途に
ついた。『伊達治家記録』によると「南山へ御出、高原越えを成し玉ひ帰洛云々」とあり、南山通り
で帰路の途についたことがわかる。
 秀吉は、五十里をへて高原・藤原を経て京都に戻ったが、途中にて大内峠や山王峠、高原峠
などの難所が続き、秀吉もなかなか大変であったらしい。『会津四家合考』によると、「太閤は高原越
をし給ひて上らせ給ひけるが、此峠は五十里の宿の外れより上る事坂東十五里、其間遶り紆りて
石高くして路嶮しく中々いぶせかりければ、太閤も御馬より下りさせ給ひ、歩行にて越えさせたまう」
とあり、この街道を「太閤下し」というようになったと記している。ときに太閤、五十五歳であった。
次→◆蒲生氏郷の会津拝領◆
ホーム 次へ 一覧