会津の歴史
会津近世の開幕

◆蒲生氏郷の会津拝領◆

 会津に下向した秀吉は、葦名氏を滅ぼして会津に侵攻した伊達政宗に服従せず、抗戦を続けて
いたとはいえ小田原の役に参陣しなかった伊南の河原田盛継、伊北の山内氏勝の所領を没収し、
奥州各地における刀狩りや検地の実施を命じ、会津黒川の地は蒲生氏郷に与える決定をおこなった。
 江戸初期に書かれた『老人雑話』という書によると、秀吉が会津に誰を配すべきか諸将に投票させた
ところ、十人のうち八九人までが細川忠興と書いてあったので、これを見た秀吉は「汝らは愚か者よ、我
が天下をたやすく取ったのも道理である。この地には蒲生忠三郎(氏郷)以外には無い」と言ったという話
が載せられている。また『会津四家合考』には、秀吉は初め細川忠興に与えようとしたが、忠興は奥州
の要である会津を守護する自信がないといって辞退し、氏郷もまた同様の理由で辞退したが、秀吉の
気色を損ねてはと思い、「自分は武功の家臣を多く持っていないので、若しもの場合にこの要地を警固
することには自信がない。いま天下には主人の勘当をうけて牢人となっている抜群の剛勇の者は数多く
みられる。これらの面々の勘当を解くよう仰せられ、自分に召し抱えを許されるならば、会津を充分に
守護しよう。それなくしては拝領のことは辞退するのほかはない」旨を申し上げた。
 秀吉もこのことを納得し「文武を得たるさむらいならば扶持をして差し支えない。但し文臣・武臣を共
に召し抱えよ」と言われ、佐久間玄蕃允の弟である佐久間久右衛門尉の罪を免じて氏郷に賜り、
また、蒲生家とは姻戚関係にある田丸直昌と関一政を氏郷の家臣として与え、徳川家康もまた水野
三右衛門の罪を許して氏郷の家臣に与え、氏郷は会津四十二万石を拝領することになったという。 
秀吉は黒川城を出発するに際し、氏郷と木村吉清を召し出し、両人の手を左右の手にとって「今後
氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清はまた氏郷を父とも主とも頼み、京都への出仕はやめて、時々
会津に参勤し、奥州の非常を警固せよ。もし凶徒蜂起のことがあれば、氏郷は伊達政宗を督促して
先陣させ、氏郷は後陣に続いて、非常の変に備えよ」と諭した。氏郷はこうして出陣地である黒川に
おいて国替えを命ぜられ、その配下の将士たちも旧領に立ち戻ることはできなかったが、これより天下の
武勇の士は、多く氏郷を頼って会津に集まるようになった。
 『常山紀談』によると、氏郷は新しい居城となった黒川城の一室において一人物思いに沈み、目には
涙を溢れさせているのを家臣の山崎家勝が見て、「この度の御栄進による感激の涙か」と問うと、氏郷は
「恩賞ならば小国でも都近き西国ならば武功も将来も望めるものを、この辺境ではその機会も無い」と
言って、さらに落涙したという。
 確かに会津の地は都から遠く、旧領の伊勢国に較べてもいかにも辺境でありすぎた。そればかりでは
ない、旧領においては二年前に三重の天守を完成させたばかりで、新しく建設した松坂の城下町も
ようやく繁栄の兆しをみせはじめたばかりで、未来には夢があった。しかるに会津は、天下は統一された
とはいえ、秀吉の力の直接およぶ地方とは異なって、兵農分離も、刀狩りも、検地なども、まだ及んで
いないばかりか、奥州の虎である伊達政宗をはじめとする旧勢力はまだまだはびこっていた。『会津四家
合考』によると、秀吉から「兄弟を残していくようなつもりでいる」といって、奥州のことを強く嘱望されたと
あるが、三十六歳にして徳川家康・毛利輝元に次ぐ天下の三大名の一人になったとはいえ、京に近い
近江国に生まれ、伊勢国を拝領していた氏郷にとっての奥州への国替えは、心の晴れぬ栄達であった
のかもしれない。
●蒲生の禄高
・天正十八年(一五九〇)におこなわれた検地によれば七十三万四千二百石。
・文禄三年(一五九四)の検地によれば九十一万九千三百二十石。
・分限帳によれば百二十万石。
徳川家康、毛利輝元につぐ全国第三の大大名となった。
●年貢率
文禄検地以後の蒲生氏の蔵入分の年貢率は三ツ八分(三八%)であった。
上田 一・四石   一・五石
中田 一・二六石  一・三石
下田 一・〇五石  一・一石
上畠 七斗     一石
中畠 五・六斗   八斗
下畠 三・五斗   五斗
     蒲生氏時代  三割八分
     加藤氏時代  五割五分
     保科正之時代 四割五分強
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