会津の歴史 戊辰戦争百話

第六十八話:小田山の火薬庫爆破

慶応四年(一八六八)籠城中の八月二十五日、小田山の火薬庫が爆発して、その
大音響に驚いた杉田兵庫(千石)の家の婦女子が、城の最期と早合点して家内残ら
ず自刃した。
間瀬ミツの日記風の覚書『戊辰後雑記』によると、
「廿五日昼過、弾薬に火移り、地響きと共に恐しき音致し、右に驚き、早まって杉
田の家内残らず自刃す。兵庫母、伯母、妻ゆふ悴勝彦(三歳)即死す」
とある。が実際は母のヤエと妻のゆふは、同室の者の臨機の処置と医師の手当てに
よって一命は取り留めた。
小田山火薬庫地図
若松城三之丸の東に隣接する一向宗極楽寺は、浄顕上人の開山になる葦名氏にゆ
かりのあるお寺であるが、和尚は松平氏の宗教政策に不満をもっており、八月二十
五日、西軍の砲車を小田山上に導いた。その際火薬庫を奪われたため、会津藩兵に
よって爆破された。この時の火薬庫の爆破について、平石弁蔵は『会津戊辰戦争』
で次のように述べている。
「小田山の北麓に火薬庫あり。奥行十二間、間口三間半あり、精製の火薬五百貫を
蔵む。小田山の西軍属々来りて之を奪ふ。城兵之を運ぶこと能はず。是に於て八月
廿五日、決死の足軽二名密かに之に近づき、火を庫内に投じて之を爆破せり。此声
数里の外に達し、激震鳴動、万雷の一時に落ちるが如く、四方の山谷に避難せし市
民も、鶴ケ城一時に焼破崩壊せしものと信ぜり。殊に城中には驚愕憤慨、既に自刃
せしものあり」
開城後、武田宗三郎は会津藩兵に多数の犠牲者を出したこの和尚の内通に立腹。
高田の謹慎所より脱走してこれを斬り、薬師堂河原において処刑された。
享年二十歳。
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