◆第五十三話:和田家婦女子の殉難◆
■会津藩士和田甚吾(百石)は伏見の役以来、父勇蔵と共に藩命を奉じて国事に奔 |
走しており、家には勇蔵の後妻ミワ、甚吾の妻ナカと長女のコマの女ばかり三人が |
いるだけであった。ナカは入江庄兵衛の長女で温厚貞淑、よく婦道を守り、姑と力 |
を合わせて家政を治め、男たちをして内顧の憂いをなからしめていた。 |
■しかるに八月に至って西軍四境より会津に迫り、姑のミワは、一旦危急迫らば女 |
子といえども恥辱を受けるべからずと、二十三日、家僕に対して暇を出した。同日 |
たまたま隣家の佐藤・諏訪の両家の婦人らが訪ねてきて、ともに難を避けるように |
と勧めた。しかしミワは他事にことよせてこれを断り、男装して自邸の門前に出て |
みたが、事態の急なるを見てとり、三人して一室に端座、互いに水盃を交わして城 |
を拝し、自邸に火を放つとまず幼い長女コマを刺し、姑ミワとナカはともに自刃し |
たが介錯する者なく、二人は息絶えずして猛火の中に包まれていった。時にミワ四 |
十一歳、ナカニ十一歳、長女コマは三歳であった。 |
■戦後、勇蔵は自宅の焼け跡に至り、灰炉の中から白骨と懐剣とを発見、妻や嫁が |
自刃したことを知り、遺骨を拾い集めると大窪山の会津藩墓地に葬った。 |
■また甚吾は母や妻の自刃之図を画かせ、その顛末を記して子孫に伝えたという。 |
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▲西軍が城下に殺到した八月二十三日に、婦女子・子供が自刃した主な家(郭内) |
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■図に掲載したのはほんの一部です。この他郭外の屋敷で、又寺などに集まって自 |
刃した人々が多数いました。ちなみに、殉難した会津婦人の霊を慰めるために昭和 |
三年十一月三十日に建てられた『なよ竹の碑』(善龍寺)には二百三十三名の名前 |
が刻まれています。 |
(管理人) |
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