会津の歴史 戊辰戦争百話

第四十三話:飯沼貞吉の母ふみ

ふみは西郷十郎右衛門近登之の三女で、長じて飯沼時衛一正に嫁いだ。当時飯沼
家には時衛の祖母美濃をはじめ、父久米之進一孝、母幸、弟友次郎・友三郎、その
他下男下女の大家族であった上、時衛は物頭として江戸勤番が多く留守がちで、ほ
とんど家には居なかったので一家の切り盛りはなかなか大変であった。そうした中
で源八一近、貞吉、ひろ、関弥の四人の子供をもうけ、子供たちの教育もふみの大
きな役目であった。
やがて戊辰戦争が勃発すると、時衛と弟の友三郎は白河方面に出撃したが、友三
郎はこの戦いで右肩に銃弾を受け、家に帰って療養中に没した。長男源八は越後に
出陣、次男の貞吉もまた白虎隊に編入された。戦況は日を追って不利で、ふみは他
の藩士の妻や娘たちと共に、臨時病院となった日新館で各地から運びこまれてくる
傷病者の看護に従事しつつ、まだ九歳になったばかりのひろや、六歳の関弥に対し
ては死ぬ時の心構えを教えていた。
八月二十一日早朝、白虎隊に出陣の命が下った。ふみは貞吉に対し、戦場におけ
る心得をさとすと
■■■梓弓むかふ矢先はしげくとも
■■■■■■■ひきなかへしそ武夫(もののふ)の道
の歌をしたため貞吉に手渡した。貞吉はこの短冊をおしいただくと、若党の藤太に
送られて勇躍家を出ていった。
二十三日、西軍は若松の城下に殺到した。五ツ時(午前八時)頃、早鐘が乱打さ
れた。飯沼家にはこの時、ふみと長女ひろ、三男関弥と八十歳を越す美濃、六十歳
余りの幸と下男下女しかいなかった。年寄り二人と、下女に背負われた関弥は一足
先に家を出て三ノ丸に向かった。ふみとひろは若党の藤太と共にそのあとを追って
家を出たが、敵は城近くに迫ったとみえて小銃の音や喚声が物凄い。こうしたなか
で、ふみは関弥の一行とはぐれてしまった。関弥一行は二週間ばかり城中に暮らし
ていたが、戦いの足手まといになるばかりなので、縁故をたよりに城を抜けて高田
のさる村に落ちていった。
九月二十二日の開城後、老人と婦女子は塩川の謹慎所にまとめられることになり
ここでふみ等は、ようやく関弥一行と再会する事ができた。しかし、次男貞吉は降
伏後猪苗代に謹慎。放免後は静岡の林三郎という人の塾生となり、家族のもとには
帰らなかった。
ふみは、明治三十年八月十七日、六十八歳の生涯を閉じた。
■■今さらになげかるゝかなつひにゆく
■■■■■■■道とはかねて思ひしれとも
海老名リンを病室に招き、代筆を頼んだ辞世の歌であった。
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