◆第十三話:二本松城攻防戦◆
■七月十五日に同盟軍による第七次白河城奪還作戦が敢行された。このときの戦況 |
は同盟軍に有利だったが、味方だったはずの三春藩兵が突然西軍に投じ、同盟軍を |
背後から攻撃してきた。このため同盟軍、特に仙台藩兵が苦戦し、砲五門を失って |
退却した。 |
■三春藩主秋田万之助はまだ十一歳の少年で、家老秋田主税がその後見役をしてお |
り、表面では同盟軍にひらに謝罪し、西軍の進攻に当たるための援兵を同盟軍に求 |
めてきた。ところが藩内の河野卯右衛門や河野信次郎(広中)らは、三春藩の使者 |
となって密かに板垣退助と会い、藩の帰順について申し出ていた。そこで板垣の支 |
隊は棚倉を出発して七月二十四日石川を、二十五日には逢田を占拠、翌二十六日に |
は三春に前進した。城主は城外に出て西軍を迎え、ここに西軍による三春無血開城 |
が成功した。つづいて守山藩の松平大学頭頼升(二万石)も西軍に降伏した。 |
■三春・守山を降ろした板垣支隊は、つぎの作戦目標を二本松(藩主丹羽左京大夫 |
長国、十万七百石)においていた。当時須賀川にあった仙台藩家老坂英力指揮下の |
同盟軍は、七月二十四日、本営およびその主力を郡山にまで後退させた。 |
■二本松城に危機は迫っていた。二十八日夜、城内で軍議が開かれたとき、一部か |
らは降伏恭順の説も出たが、家老丹羽一学は「死を賭して信義を守は武士の本懐」 |
と徹底抗戦を主張した。 |
■七月二十八日、西軍はまず本宮を突いた。さらに二本松の東方小浜を占拠した。 |
二方面から二本松を挟撃する構えであった。阿武隈河畔で待ち構えていた同盟軍は |
渡河しようとする西軍に猛射を加えた。土佐藩隊長美正貫一郎は率先して川を渡ろ |
うとしたが、会津藩兵の狙撃にあって河中に倒れた。しかし西軍は、土地に慣れた |
三春・守山の藩兵らが先導をしているので地理に明るく、やがて同盟軍は挟み撃ち |
においこまれ、細谷十大夫・塩森主税ら仙台藩兵や二本松藩兵らは漸次高倉山へと |
追い立てられ、やがて本宮は西軍の手に帰した。 |
■翌二十九日未明、勝ちに乗じた西軍は、三春藩兵を嚮導に小浜より進撃を開始。 |
薩摩・土佐・大垣・忍・館・黒羽・備前・佐土原の大部隊も伊地知正治・野津鎮雄 |
・野津道貫・逸見十郎太・有地品之允ら各将指揮のもとに、本宮を発して奥州街道 |
を二本松に向けて前進を開始した。 |
■これを知った同盟軍は、砲兵を正法寺村の西南方羽黒祠の高地において西軍を阿 |
武隈河畔に迎え撃ったが、小浜口からも平方面の浜海道部隊が続々と来援、二本松 |
城は三方面から包囲攻撃されるに至った。だが二本松の城内は精鋭の大半が須賀川 |
方面に出陣しており、城を守る兵力は甚だ少なく、老人と少年と町・農兵ばかりで |
あった。 |
■同盟軍が二本松城の南大壇口に急いで防禦線を張ったとき、この主力の一部は数 |
え年で十二歳から十七歳までの少年兵であった。彼ら総勢六十数名は二十歳の隊長 |
木村銃太郎に引率されて深い霧の中で陣を敷いた。 |
■やがて夜明けの霧が晴れようとしたころ、正面の敵の猛攻撃が始まった。砲弾は |
目の前の松林で凄まじい勢いで破裂し、銃弾は無数に飛んでくる。少年らも負けず |
に重い百匁銃で応戦したが仲間はばたばたと倒されていった。乱戦のさなか一弾が |
隊長木村銃太郎の二の腕を貫き、つづく一弾が腰に命中した。木村はドーッと倒れ |
た。「この傷では城まで行けない。早く己の首をとれ!」と叫んだ。少年たちは泣 |
きながら隊長の首を斬り、あまり重いので二人がかりで髪を掴んで退却した。 |
■背後の城中からは火の手があがり、味方はいつの間にか戦場から姿を失い、少年 |
隊も二十二名の戦死者を出した。会津藩兵も、桜井弥右衛門率いる朱雀二番隊足軽 |
組が日光口より駆けつけ、井深守之進率いる猪苗代隊とともに正法寺・大壇の街道 |
筋に奮戦したが、小隊頭小笠原主膳をはじめ、約三十名が戦死、負傷者多数をだし |
て敗退した。 |
■その頃、城主丹羽長国は重臣たちの諌めで一方を切り開いて米沢へ落ち、夫人は |
会津へ逃れた。戦火が二本松の城下を包むころ、後に残った家老丹羽一学をはじめ |
とする重臣内藤四郎兵衛・服部久左衛門・丹羽和左衛門・阿部井又之丞・千賀孫右 |
衛門ら七名は本丸に火を放ち、従容として国難に殉じた。 |
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