会津の歴史 戊辰戦争百話

◆序章5:家訓と守護職◆

徳川家康は元和元年(一六一五)八月「公武法制十箇条」なるものを定めたが、
その内容は「神は天魂にして天皇は地魂なり、天魂地魂は日月なり」としながらも
天照大神以前は全く無視し、将軍をもって現人神に比し、それまでの「王心政道」
を「武官政道」にする事を宣したのであった。つまりこれまでの天皇の権威は将軍
が引き受け、天皇には奏聞せず勝手に政治を行い、もし政治に失敗のあるときは、
神罰は将軍がこれを引き受けると宣したのである。その上、一国一城の主が天皇の
勅命をうけても宮中には参内できないとか、京都に入っても三条筋から奥に入ること
を禁止し、もし参内することがあったり、天皇にたいする誠忠の意を外にあらわせば、
一家はことごとく断絶せしむるという内容のものであった。
さらに、正保二年(一六四五)三代将軍家光は「宮号」というものが天皇・皇族
以外に容易に許されるべき筋のものでないことを充分承知の上で、祖父家康に
「東照宮」の号を下賜せられ、皇族同様に扱われんことを強く奏請してこの宮号を賜り
その翌年からは伊勢の皇大神宮と同様、例幣使まで日光に差遣わしている。つまり
これが徳川家の天皇家に処する態度だったのである。
会津松平家の誠忠心を言う人があるが、保科正之は徳川家康の孫であり三代将軍
家光の異母弟にあたる。当然のことながら正之の制定した「家訓十五ヶ条」のどこにも
天皇に対する忠誠を述べたくだりはない。第一条に掲げられた「大君の義…」
というのはあくまでも歴代将軍のことであって会津藩はつねに徳川宗家と盛衰存亡を
ともにせよ、もし二心を抱く者があればそれはわが子孫ではない、という立藩の使命
を述べたものであった。
幕末の動乱期にあたり尊王攘夷の思想が盛んとなり、尊攘派の浪士たちが多数
京都に集まって来るようになると、これに危機感をいだいた幕府はこれら浪士たちを
取り締まるべく京都守護職をもうけるのであるが、これはこれら浪士から天皇を守る
というものではなく、揺らぎ出した幕府の基盤を、朝廷との橋渡しによって補強しよう
とするものに他ならなかったのである。
幕府から松平容保に京都守護の内命が伝えられると、国家老である西郷頼母・
田中土佐は急きょ江戸に上り、時勢の困難さを説いて容保を諌止した。しかし容保は
藩祖正之の遺した家訓「わが家は宗家と盛衰存亡をともにせよ」のおしえにしたがって、
守護職を受諾する決断をおこなったというのである。もしそうであったとするならば、
大坂から江戸に退去した徳川慶喜が、嘆願書を差し出して上野の寛永寺に
ひきこもり、あくまでも抗戦を主張した容保の登城を差し止め、江戸を去って謹慎を
命ぜられたとき、あるいは江戸城が開城されたとき、会津はなぜ開城をしなかったのか。
たしかに、いつも幕府の先鋒となって戦い、多くの犠牲を出してきた会津にとっては
憤まんだったに違いはないが、同じ家訓は一方で、「我意を介してはならない」とも
戒めているのである。将軍にたいする忠勤に我意をはさんではならなかった筈である。
それなのに、主戦派の佐川官兵衛を中隊指令に任じ、恭順派とみられた軍事奉行
添役の神保修理には切腹を命じている。会津藩の悲劇はまさに自らが選択した道筋
だったのである。
会津藩家訓
▲家訓(かきん)
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