会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(24)◆
志賀重則

著者/河野十四生
 幕末、天下無双といわれた槍術師範の志賀重則は、宝蔵院鎌流師範の志賀重方の長男として文化10年(1813)に生まれ、父に似て豪気で槍術の妙域に達して印可に進んだほか、余暇には弓馬の術も修め、兵学も勉強した文武兼備の士でした。
 18歳で単身、槍を携えて奥羽越から山陽、西海の諸国を巡って修業しました。九州・久留米に井上慶太という評判の槍使いがいたので、手合わせしたところ、まったく問題になりませんでした。長州の城下町・萩でも相手になる者はありませんでした。重則は「天下一」の名声を博しました。
 弘化元年(1844)、長州藩主、毛利慶親の招きで、父の高弟らと萩に赴き、藩士らに一年あまり教授しました。
 辞して帰国する際、長州藩士、岡部半蔵ら4人を率いて会津に戻ります。
 また、佐賀藩も藩士を会津に送り込んで教授してもらうなど、多くの弟子を指導しました。
 弘化3年(1846)、疫病が流行して重則も罹り不帰の人に。38歳の若さでした。
 このように、戊辰戦争から、わずか20年前は会津藩と長州藩は仲がよく、人事交流があったほどでした。それが、今日まで遺恨が続く間になったのは、海に面した長州藩では、武士階級に代わって町人、農民が目覚めて「兵」に成長したこと、一方、会津藩では、四方を山に囲まれ、外の新しい空気が入ってこなかったことなどが原因のひとつと考えられます。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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