会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(20)◆
横田俊益1

著者/河野十四生
 横田俊益は会津藩初期の有名な儒者です。
 俊益は蒲生時代→加藤→保科正之時代にかけて会津藩主に大きな影響を与え、江戸でも有名な学者だったので、2回にわけて特集します。
 俊益は元和6年(1620)、若松の城下町大町角の倉田俊次の三男として生まれ、幼名三平。父の俊次は源頼朝の奥州征伐に従って功があり、奥会津に封ぜられた山内経俊の子孫で、のち、若松の豪商、倉田為実の婿になります。
 倉田家は、若松城下七日町の阿弥陀寺を建立したほどの熱心な浄土宗の信者でした。俊次も50歳の時、若松に行脚してきた遊行上人に帰依して、髪を剃って泡興と称しました。
 当時、興徳寺第三十三世逸傅は、朝廷から紫衣を賜わった名僧で、京都の妙心寺の住職になりますが、俊次は親しく交わり、俊益が3、4歳のころから家に招いて説教を聞かせたそうです。9歳で『観音経』や『般若心経』を習います。
 寛永4年(1627)正月、城主蒲生忠郷が25歳で亡くなり、4月、加藤嘉明が伊予・松山20万石から40万石の大守として入封します。
 三平10歳の時、『般若心経』などを暗唱しているのが評判になり、嘉明に稚児小姓に上がるよう伝えられると、俊次は「年が若い」と断りました。ある時、父が「もとは山内の一族であり、お前は本氏を継げ」と、横田姓を名乗らせます。
 さらに「身につけた財は時にはなくなるが、心につけた財は滅することがない」と論しました。実は、中国・北宋の有名な学者である司馬公(温公とも。1019〜86)が子孫に対し家訓を残しています。「金を積みて子孫に遺す 子孫未(いまだ)必ずしも守らず 書を積みて以て子孫に遺す 子孫未必ずしも読まず しかず、陰徳を冥々(めいめい)の中に積み 以って子孫長久の計をなさんには これ、先哲の格言にして すなわち後世の亀鑑なり」。この家訓と同じではありませんか。俊次もなかなかの博学だったようです。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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