会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(19)◆
家老・丹羽能教

著者/河野十四生
 丹羽能教は七代藩主・容衆時代の家老です。5歳で母を、10歳で父を亡くし祖母の家で養われました。幼少から学問に秀でて、長じて文武を兼ね、特に兵法に詳しく、また経済面にも知識が深かったようです。
 安永4年(1775)、家督400石を継ぎ外様組付となり、天明8年(1788)、藩政改革に際して番頭組頭となります。寛政9年(1797)家老組頭に出世し、後に幼君容住の用人に転じます。
 文化2年(1805)、用人頭取を兼ねますが、五代容頌はこの年62歳で没し、容住が六代藩主となるも、わずか4ケ月でこの世を去り、同3年、七代容衆が襲封し、能教は先任軍事奉行になりました。
 折りから、日本の北辺をロシア船が度々襲うなどの被害が出たため、幕府は会津・仙台両藩に樺太防備を命じました。能教は文化5年(1808)正月、諸隊を率いて樺太に出陣、その任を果たして同年9月、帰国。その功で100石が加増されます。
 さらに、幕府は文化7年(1810)、会津・白河両藩に対し、房総・相模両半島の防備を命じました。この時も能教は、君命を奉じて相模半島の要害を巡見し観音崎に陣屋を築いて江戸湾防備の任を監督しました。
 同10年、若年寄となり、文政2年(1819)には家老となりました。同年、幕府から、相模防備の功によって功物を賜わります。同8年には、八代容敬より、永年の労を賞されて100石を加増されます。
 後、病をもって致仕を願い出ますが許されず、肩輿に乗って城門を入ることを許されます。同12年(1829)になってようやく致仕が許され、国事に尽くした労に報いてさらに100石加増されます。天保14年(1843)没、78歳の長寿でした。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
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