会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(3)◆
田中玄宰(たなかはるなか)

著者/河野十四生
 トップバッターは有名な家老、田中玄宰です。五代藩主・松平容頌時代に疲弊した藩財政を立て直し、藩校・日新館を建設して学問を盛んにし、晩年は大老になって会津藩の政治を支えました。
 彼が生まれ、育った享保時代(一七一六〜三五)は、八代将軍吉宗の享保の改革が民力を疲弊させただけで失敗に終った余波を受け、享保二十年(一七三五)の会津藩の借金は十八万両におよび、宝暦年間(一七五一〜六四)には四十万両、さらに安永元年(一七七二)には五十七万両にも膨れ上がった、まさに破綻状態でした。
 こうした危機的な状態で登用されたのが田中玄宰です。彼は、農村や産業を建て直すには、人材育成が基本であるとし、家臣団に対して、藩政に役立つ人物としての文武一体の習得を義務付けて十一歳から十八歳までの藩士の子弟を就学させることにし、文化元年(一八〇四)会津日新館を建設しました。
 田中玄宰の藩政改革も一段落した文化二年、五代松平容頌が死去、後を継いだ容住はわずか四ケ月でこの世を去り、三歳の金之助が封を継ぐことになり、七代容衆と改めます。幼君を助けて田中玄宰は大老として政治の処理にあたりました。
 一年の間に、藩主が二人も死去するという困難な時期に、幕府は会津藩をはじめ奥州の諸藩に樺太出兵を求めてきます。ロシアの船がたびたび樺太に出没したためで、会津藩は文化五年(一八〇八)、樺太に六〇〇名の藩士を送り出します。
 この時の北辺防備は一年足らずで終りますが、藩士たちがまだ帰還しない同年八月、玄宰は亡くなります。享年六十一歳。
 遺言で「わが骨は、城と日新館が見えるところに埋めよ」と残し、墓地は小田山の頂上に立っています。
 今年(二〇〇八年)は北方防備から二〇〇年にあたり、鶴ヶ城天守閣で七月四日から八月二十四日まで「北方警備二百年記念展」が開かれます。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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