会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(2)◆
序章2

著者/河野十四生
 戊辰戦争で会津藩は斗南(青森県)に「挙藩流刑」され、その後、全国に四散して会津と疎遠になったたため、大窪山の墓地は見捨てられ、昭和時代まで百年間も放置されました。このため、草が生い茂り、墓石も倒れて哀れな墓地になっていました。
 時折、墓地を訪ねてくる子孫の人たちも、先祖の墓を確認することが出来ない時代が続きました。
 しかし、昭和五十八年(一九八三)、白虎記念館長だった故早川喜代次氏の提唱によって会津史談会をはじめとする九団体で「会津大窪山墓地顕彰会」が結成され、墓地の一部の写真が記念パンフレットに掲載され、昭和六十二年(一九八七)、会津若松市教育委員会によって墓地調査が行われ、郷土史家、故小島一男氏が一基ずつ、丹念に調べ上げ、墓所の範囲、位置、墓碑を、平成六年からの再調査も含めて、四〇〇〇基の墓石が明らかになりました。
 八万一〇〇〇平方メートルの斜面一帯に生い茂る雑草や雑木林をかき分けての作業は幾多の困難に遭遇し、大変だったと聞きました。小島氏の努力に改めてその御霊に敬意を捧げたいと思います。
 小島氏とは、小生が会津にUターンして、歴史的にも貴重な町名を復活させようと、市民に呼び掛けて幅広い運動を展開するにあたって、いろいろと故事来歴、町名の由来などを教えてもらいました。
 そして大窪山の仕上げは「小田山麓の歴史を訪ねる会」(兼子正光会長)の活躍です。同会は、平成十三年(二〇〇一)から、大窪山の墓地周囲に散策路をつくり、急な斜面には階段をつけて、墓地を巡って歩けるようにしてくれたのです。みんな自費でした。
 会津若松市でも、墓石名などを作って応援してくれ、今日の姿になりました。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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