会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(1)◆
序章1

著者/河野十四生
 今回から、会津若松市の市街地から東の小田山南斜面の通称、大窪山一帯に広がる会津藩共同墓地に眠る藩士たちを順次紹介します。
 近世初頭の会津における葬送の習慣は、概ね火葬で営まれていました。寛永二十年(一六四三)会津藩主になった保科正之は、朱子学、並びに吉川神道をもって主旨とした人であり、彼は、火葬の習慣を不孝な弊風とし、産子の間引きと共に火葬の習慣を改めて、土葬にするよう教導しました。 この間の事情を史料「家世実記」巻之二十三(寛文三年=一六六三)および「家世実記」二十五(寛文四年=一六六四)には、「火葬ハ不孝、産子ヲ殺候ハ不慈二侯」と火葬は間引きと同様不孝な行為であるので止めて、以後は、土葬とし、場所も「南青木村卜北青木村之境二大窪卜申谷有之、此ノ外、・郷ノ原卜滝沢山続小山卜申卑キ山(以下略)」の三か所を指定しました。この内、大窪山が武士のための墓地で、後の二か所が町人用でした。
 町人の墓地は実際には、あまり利用された形跡はなく、多くは、それまで通りに火葬にしていたことが伺えます。 ところが、大窪山は会津松平家が江戸末期まで続く約二五〇年の間、家老から藩士に至るまで約四〇〇〇体の御霊が眠っています。これだけ多くの墓地が一か所に集まっているのは、全国的にみても例は少ないはずです。
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河野十四生/著
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