会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と子安観音:その4◆

 ところでこの袖山のあたりは昔“お蔵入り”と称し、天領であった。そしてこの附近一帯
には、多数の切支丹が居たと言われ、宝暦6年(1756)10月に書かれた『陸奥国転
切支丹類族存命帳控』(江川文書)によると寺入には八人の書き上げがあり、さらに、
同部落内には十字架模様をつけた祠もある。また寺入近くの富岡という部落の墓地
内には十字模様をつけた御霊舎が、観音という部落には後に述べる子安地蔵を祀った
観音堂もある。とすると、この早坂峠にあるおぼ抱き観音もちょっと気にかかる子安観音
ということになる。
 猪苗代地区にくると、ここには猪苗代三十三観音というのがある。会津三十三観音、
府内(市中)三十三観音、御蔵入三十三観音などと、数々の三十三観音があるが、
猪苗代三十三観音には他に見られない特徴がある。というのは、他の三十三観音には
子安観音を本尊としているところは一ヶ所も含んでいないのに対し、猪苗代三十三観音
の中には九ヶ所もある。そのほか番外のも入れるとなんと十三ヶ所もあるのである。
 それらのものを列記すると、
安穏寺
沼倉阿弥陀堂
堀切太子堂
20 百日貫地蔵堂
22 釜井行屋
25 大在家行屋
26 西真行行屋
29 行津大悲堂
30 戸ノ口観音堂
外2 大原観音堂
外3 志津文殊堂
外6 三丈潟地蔵堂
外7 樋ノ口観音堂
 以上のようになる。尚、このほか11番関脇の優婆夷堂の客殿には宝冠に十字架を
つけた観音像が祀られている。
 猪苗代地方は岡越後を城主として以来、会津ではもっとも切支丹活動の活発な所
であった。猪苗代地方に子安観音像の多いこと、そして地域の人たちがこれらの観音像
を三十三観音の内に加えて信仰を続けて来たことは、これは単なる偶然的符合とばかり
は考えられないのである。
 観音像以外の仏像、神像としては、会津高田町観音部落に、先にもちょっと触れた
子安地蔵尊がある。また熱塩の示現寺にある六地蔵も切支丹地蔵とみる人があり、
会津若松市小田の宝積寺門前には錫杖に十字架を切った地蔵尊が建っている。
 このほか、金山町横田の松前寺住職は、民俗資料の蒐集家として知られているが、
ここには柳津の西山地区から入手したという、冠に十字架を刻んだ天神様を所蔵して
おられる。
■切支丹と子安観音:おわり
◆会津切支丹雑考おわり◆
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