会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と子安観音:その3◆

 また、田島からは反対方角にある水無部落の入口にある墓地内にも、一部切支丹
研究家が注目する子安観音がある。水無は栗生沢部落の手前にあって、延享年間
(1744〜47)で家数が40戸、人口168人、水田の無い山村であったが、ここには
正保2年(1645)に捕らえられた喜三郎、勘四郎、四郎右衛門、惣助、きくこなどの
五家九人の信徒がいたことが知られており、このうちの大工喜三郎は江戸送りとなった
が、その後のことは不明である。栗生沢から水無にかけては、北関東から東北、ことに
会津に入る間道として切支丹からは重視されていた地域であった。くだんの観音像は
1958年前後に、開田中の地下深くから発掘されたものだそうだが、右側面には「全
汰離提信女」、左側面には「寛政五年丑二月十八日」と彫ってあり、一見して普通
の子安観音像であるが、その表情は、どことなくエキゾチックな感じをただよわせている
観音様である。しかしこれが単なる子安信仰であれば、観音像を地下に隠匿しなけ
ればならなかった理由は全くなかった筈であり、その点、田島地区は会津で唯一箇所
絵踏の行事が行われるなど、お上の探索が最も厳しかったところであり、こうした探索
からのがれる必要に迫られて、この観音像も地下に隠匿し、もしくは破却しなければ
ならなかったものと思われるのである。
 田島地区から北上して下郷町に入ると、大内部落に子安宮というお堂があって、
ここには金色も鮮やかな木造りの子安観音像が祀られている。
 切支丹に由緒のある観音像としては、このほか柳津町久保田地区の観音山に
祀られている三十三観音のうち、七番に、左手に十字架を握り高々とかざしている
如意輪観音像がある。像の高さは約70センチで、寄進者は佐藤宗五良となっており、
文政年間(1818〜29)の作と推定される。またこの村には昔お寺があったそうだが、
今は廃寺となっており、当時の本尊その他の仏像が、公民館の一室に設けられた仏間
に安置されているが、その本尊は木造金色のかなり見事な子安観音である。
 柳津町にはこのほかにも小柳津地区に慈母観音と呼ばれている子安観音がある。
高さは約85センチ位で、江戸中期の作といわれ、地元では母乳の出ない母親が
観音像の胸部を削り取り、祈りながらにそれを飲むと効くと信じられており、また不妊症
の人が下半身の部分を削り、入浴のときにそれを使って自分の下半身を洗い浄めた
などとも言い伝えている。柳津は、佐渡の切支丹と会津の切支丹の連絡路にあたって
おり、その山間部には切支丹の足だまりがあったと言われている。小柳津の慈母観音
がマリヤ観音だとする証拠はないが、小柳津は、柳津から大野新田を通って会津の
平坦部に至る間道沿いの寒村である。切支丹が会津に潜入する中継基地にするには
格好の位置ではなかったかと思われるのである。
 柳津から会津平坦部に入る通路としては、この小柳津を通る間道の他に、この北側
を通るもう一本の間道があった。この間道は柳津から早坂峠を通り、大平山を通って
同じく大野新田へと出る。そして面白いことには、この早坂峠にも通称おぼ抱き観音と
呼ばれている観音様が祀られている。そして、このおぼ抱き観音には一つの伝説が
あって、元禄の初期の頃(1688〜)、会津は袖山(会津高田)に住む馬場久左衛門
常智という人が、あるとき宿願のことがあって、柳津の虚空蔵さまに丑の刻(午前二時)
参りをはじめた。そしてその満願の日、この早坂峠において、おぼ抱き幽霊と出合い、
幽霊が髪を梳く間子供のおもりをして、そのお礼として切餅(一分銀百枚を紙に包んだ
もので二十五両、その姿が切餅に似ているところからその名がある)を貰い、それからと
いうもの、良い事ばかりが続くようになって大の分限者になった。そこで、馬場常智は
その御礼として、幽霊と出合った早坂峠の頂上に、おぼ抱きの観音様を祀ったという
のである。
■切支丹と子安観音:その4 へつづく
次→◆切支丹と子安観音:その4◆
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