会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と子安観音:その2◆

 木喰上人は二回目の四国巡錫のとき、人里離れた中之庄薬師堂光明庵に至り、庵
の前の槙(まき)の大木に子安観音像一体と、もう一体の仏像を、各々二日づつで成就
させ、かつ上人が心願としていた
木喰もそばのこどもにだまされて
      まだもうきよにうろたへておる
の一首を残してこの地を去った。説明するまでもなく、“そばのこども”は“側の子供”と、
“蕎麦の粉ども”をひっかけたもので、上人は木喰の戒によって火食を避けて蕎麦粉を好
み、一方では子供をこよなく愛していたから、子安観音にも特に心のひかれるものがあった
のであろう。時に寛政11年(1799)6月28日のことであった。
 上人が子安観音像を三十三観音像の中に加えてはじめて彫ったのは、先にも書いた
ように小千谷市小栗山音羽観音堂のもので、享和3年(1803)のときのことであった。
長岡市白鳥町宝生寺のものは同4年の作。南魚沼郡塩沢町正光寺のものは文化2年
(1805)の作。そして甲府教安寺の文化5年(1808)作の子安観音像は、上人91歳の
ときの作である。上人は同7年の6月5日に入寂しているから、この像はその2年前の作と
いうことになり、おそらくこれが、上人最後の子安観音像であろうと思われる。しかし、木喰
上人の作になる子安観音像は、いわゆるマリヤ観音でないことは勿論である。
 徳川幕府は切支丹禁制を布くなかで、宣教師も、指導的信徒も処分しつくした他に、
懸賞訴人、五人組連座制、絵踏、宗門人別改め、類族改めなど、数々の検索制度に
よって人々を切支丹邪宗観一色に洗脳してゆくが、その中で教会側からすれば、もうその
ときは正統のキリスト教(徒)ではないというかもしれないが、七世代にわたる切支丹信仰の
伝承はゆがみ、かつ土俗化しながらも、一部農民たちの間にあって継承され続けて来て
いたのである。潜伏と土俗化した時代におけるこれらの人々の信仰は、仏教国教政策に
順応し、絵踏を行うという妥協の上に維持されたけれども、彼らにとっては仏教も、神道も、
それらはあくまでも隠れミノであって、それをもって正行としていたのでは勿論なかった。彼ら
は仏教やその他の名前を借りながら、切支丹信仰をそれらの対象の上に置き替えていた
のである。その最たるものが先に述べた子安観音の信仰であるが、彼らはその他にも地蔵、
不動明王、薬師如来、天神、道祖神、稲荷、恵比須、大黒等と多種にわたっており、
それらのものは一見して正行のものと変わらないものであるが、よく注意して調べてみると
雰囲気が異なっていたり、気付かれないようなところに隠しクルスが刻まれてあったりする。
ことにマリヤ観音の特徴としては多くの場合眉間に白毫の星がない。またその他にも、本尊
は何もないのに不開扉とか、中を開けると目が潰れるとか称して扉を開けることをタブーとし、
荒神を装うた例も少なくはなかった。しかしこうした本尊も、明治初年の廃仏毀釈の時に
廃絶されてしまったものが数多く、今日まで継存されたものは極めて僅かしかないようである。
 会津に現存するマリヤ観音は、福米沢のものが最もよく知られている。国道289号線を
田島から山口の方向に数キロ行くと右側に、常楽院という大きなお寺があるが、同じ境内
に、昔は村のはずれにあったという子安観音が祀られており、これがいわゆるマリヤ観音で
ある。高さ約80センチ位の石の座像で、一見すると十九夜様といわれる普通の子安観音
であるが、三角形の冠には明らかにギリシャ十字が浮彫りにされており、冠からは、両肩に
かけてベールが下がっている。赤子を横抱きにして朱色に染めた天衣をひるがえしている姿
はどう見ても日本の仏教とは言い難いものがある。台石には文化4年(1807)の年号が
刻まれているが、本体と台石とは別物のようである。福米沢には水無村の古切支丹きくこ、
栗生沢の転切支丹長三郎などの類族が、住んでいたことが知られているが、そのほかにも
判明しない切支丹が多数住んでいた地域として知られ、明治の初期にキリスト教が解禁
になるや、一寒村であるにもかかわらず、カトリック教会がいち早く建てられたことをみても、
切支丹信仰がひそかに守り通されてきていたと、推測されるのである。
■切支丹と子安観音:その3 へつづく
次→◆切支丹と子安観音:その3◆
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