会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と子安観音:その1◆

 切支丹の盛行した時代、信者たちの拝する聖像は西欧諸国、並びにルソン製の舶載
された聖像では間に合わず、これを模造したものが多かった。しかし徳川時代になり、
幕府の詮議が厳しくなると、中国から輸入した白磁の慈母観音をマリヤ観音に擬して
拝するようになった。しかし、中国の慈母観音の入手が困難な諸地方では、土着した
信仰や在来の宗教と習合して、古刹の本尊などがマリヤやキリスト像の身代わりとして
祀られたものも少なくないが、そのなかでも子安観音の信仰は最も顕著なものであった。
 中国慈母観音の由来は、中国南部の俗間で広く行われていた娘々神信仰に始まる
が、娘々廟には催生娘々神が祀られていて、子供を授けるご利益のある神として信仰
されていた。それが後に観音経と結びついて、幼児を抱いている観音像を創り出したが、
これがやがて仏教や道教に入って信仰されるようになったのが慈母観音である。
 慈母観音は、後に明の時代に至ってから、絵画や彫刻等によってより多く表現される
ようになるが、なかでも江西省の景徳鎮の陶磁器が最も多く、これが白磁であるところ
から、一般には“白磁観音”の名で呼ばれていた。この白磁観音はやがて日本にも輸入
されるようになり、日本の仏教徒がこれを模倣し、さらに神道側の子安信仰と結びついて
子安観音、又は子育観音と名付けられて俗間信仰に転身したが、切支丹信徒もこの
観音を聖母マリヤに仮託してマリヤ観音と呼ぶようになった。
 中国渡来の白磁観音は子供を抱いているほかに、胸のあたりに十字架に似たマンジ
巴の変形したような印が刻まれていたので、切支丹達にとっては聖母マリヤに擬するのに
は好都合であった。その上白磁の白色は、キリスト教では光栄、喜悦、無罪を象徴し、
聖母マリヤの聖祭には白色の祭服を着用する慣習もあって、白磁観音は切支丹の心の
奥深くに潜む意識や観念に投影し、マリヤ観音として自分達の信仰を仮託させるために
はまことに格好の観音であったのである。
 日本古来の子安信仰としては、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)をもって
安産の神としていた。これは姫がお産のときに産室に火を放ち、猛火の中で彦火々出見
命(ひこほほでみこのみこと)外三柱の御子を御安産なされたという神話によるもので、
これが即ち神道の方で言うところの子安信仰である。ところで一方の仏教の方では元来
子安信仰というものはなく、強いて言うならば妙法蓮華教観世音菩薩普門品第二十五
に、「若有女人設欲求男礼拝供養観世音菩薩。即生福徳智慧之男。設欲求女即
生端正有相之女。」という経文があって、観世音に祈ると望み通りに男女いずれにても
子供が授かるということが出てくる位のことである。したがって、従来の六観音、七観音、
二十五観音、三十三観音のいずれの観音像のなかにも、子安観音の名は出てこない
のである。
 子安観音が仏教の三十三観音の列に仲間入りするようになるのは、それまで無籍で
あった子安観音に心を痛めた木喰上人が、新潟県小千谷市の小栗山音羽観音堂に、
子安観音像を三十三観音の中に加えて刻み遺したのが嚆矢ではないかと思う。それも、
木喰上人は晩年の天明8年(1788)から寛政にかけての一年間を九州に渡り、日向
(宮崎)・大隅・薩摩(熊本)・肥前(佐賀)と巡錫し、寛政7年(1795)10月初旬からの
約1ケ年近くを長崎において暮したことがあった。当時上人は七十八歳の高齢であった
が、その頃切支丹はまだ社会の関心事から完全に消え去ったわけではなく、彼がこれに
目をつぶって通る筈はなく、長崎の雰囲気の中から切支丹の何たるか位は掴んだのでは
ないかと思うのである。なぜならば、上人作の仏像の中に子安観音像が見出されるよう
になるのは、この長崎時代以降になってからのことだからである。
■切支丹と子安観音:その2 へつづく
次→◆切支丹と子安観音:その2◆
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