会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と天守閣:その2◆

 織田信長は切支丹に対して手厚い保護を加えたが、自分では切支丹にはならなかった。
しかし安土の城を築くにあたってはポルトガル人司祭のルイス・フロイスを奈良に迎え、
松永久秀をして築城上の意見を求めさせた。その結果本丸には大天主、小天主が築かれ、
その上天主の内部には金・銀・朱泥が施されて、キリスト像やマリア像が祀られた。また
屋上には金色燦然たる十字架がかかげられて、その壮麗さには宣教師たちもただただ感嘆
したといわれている。
 しかしこの安土城も、信長が居城できた期間は僅かにして三年、天正十年(一五八二)
には本能寺の変が起き、城もまた信長と運命を同じくしたのである。それ以来、城の全貌
は謎に包まれてきたのであるが、近年、元名古屋工業大学教授の内藤昌氏が旧加賀藩御抱
大工の家に伝わる古文書の中から、天主(閣)の基本設計図ともいうべき『天主指図』の
写本を発見し、五年がかりで復元設計図を完成させたのである。
 それによると安土城の天主(閣)は外観五層、内部七層、底面は不等辺八角形。石垣の
上からの高さは約三二・五メートル(百七尺)。内部には高さ二〇メートルもの吹き抜け
構造を持ち、空中にはせり出した吊り舞台を備えるなど、後世の築城の常識からは全く
はみ出した独創性を持つものであった。
 その特徴の第一は西洋のカテドラルにあるような吹き抜け空間があったこと。第二は地下
一階に宝塔が据えられていたこと。第三に東西南北どこから見ても左右非対象であった
ことなどである。この第三の理由は簡単で、石垣を築いた際に地形の関係から天主(閣)
の底面が不等辺八角形になり、その上に四角形や正八角形の望楼をのせるという無理な形
をとったことによる。そしてそのアンバランスな建物を、力学的にあるいは美観的に調和
をとるため、飾り屋根としての破風様式が使われたという。第一にあげた特徴の吹き抜け
は、これはあきらかに宣教師からの示唆によるものであるが、この吹き抜けの空中、地下
一階から数えて三階の北側に、一辺約四・二メートル正方形の吊り舞台を設け、向い側に
は客席、東側には幅一メートル余の橋が付けられているが、これは幸若舞を愛した信長の
好みによったものであろうという。そして第二の特徴の宝塔は、仏教的宇宙観に基づく須弥山
(世界の中心)の表現と解され、キリスト教と仏教の影響とを一つの建物の中に混在
させた理由としては、その頃から「天下布武」の朱印を使い始めていた信長の、天下統一
の理念をそこに示したものであろうといわれる。
 ところで若松のお城であるが、若松城はその昔、小高木の舘、あるいは黒川城ともいわれ
南北朝の頃に葦名(あしな)氏の構えた中世の舘であったが、天正十八年(一五九〇)
に、蒲生氏郷(がもう・うじさと)が会津に移封になるや、文禄元年(一五九二)六月に
工を起し、約一年で築いた城である。安土城におくれること十四年であった。
 蒲生氏郷は洗礼名をレオという。当時有数の切支丹大名であった。この氏郷が築いた
全国にも稀にみる七層の大天守に、十字架やマリアの像が祀られてあったとしても不思議で
はなく、むしろあって当然であった。この七層の大天守は、残念ながら寛永十六年(一六三九)
加藤明成の代に五層に改装されてしまったが、しかもその頃は切支丹に対する迫害が
もっとも厳しかった時であり、明成自身も歴代の城主の中でもっとも苛酷に弾圧を加えた人
であり“天主”の由来がどうであろうと、その五層に十字架が祀りなおされたとは考えられない
ことである。しかし切支丹禁制の総元締である江戸城には、明治維新のときまで十字架が
あったという説もあり、だとすると、若松城の場合はどうだったのだろうかと再度首をかしげたくなる
のである。
■その3へつづく
次→◆切支丹と天守閣:その3◆
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