会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と天守閣:その1◆

 太田錦城は、『梧窓漫筆拾遺』の中で「天守の名は天主教から出たものであろう」としている。
また新井白石も『西洋紀聞』(下巻)の中で、「デウスというもの、漢に翻して天主とす。……
天主教法の字は最勝王経に出づ」と書いている。
 天守という字が文献にはじめて見えるのは『細川両家記』で、その永正十八年(一五二一)
七月のころに、摂津国伊丹城の天守のことがでているのがはじめてだそうである。その後
永禄年間(一五五八〜六九)になって、尾張楽田城に天守のあったことが、『遺老物語』
というのにみえ、それによれば高さ二間の壇の上に、五間の矢倉を設けたとある。
 天守は“天主”または“殿守”とも書かれるが、この“天”は果して何を指しているのか、
従来から種々と問題にされて来た。一つは天主教、即ちキリスト教的な“天”であるとする考え。
もう一つは仏教の“天”即ち須弥山(しゅみせん)を指すという説。さらには、近世城郭史に
一ページをひらくとされている安土城の広壮な天守の最上層に、儒教の七賢の絵が描かれていた
と言われているところから、天主の“天”は儒教の天ではないかとする説もある。
 織田信長は天正四年(一五七六)に、前後三年を費やして安土城を完成したが、これは
本邦築城史上に新紀元を画すものであった。現在の滋賀県琵琶湖畔能登川駅から左の方に
ある丘の上に建てられ、内湖に面してその高さは三十メートルを越し、下には七層の石垣
を廻らして、東側は絶壁の自然の要塞をなしていた。戦国乱麻の時代にあって信長は、この
安土城に拠って天下の帰趨(きすう)を明らかにしたのであるが、その頃安土の町には高槻の城主
高山右近が千五百人の人夫を寄進して建てた安土教会の大成寺(ダイウス寺)と、
木造三階建の神学校(セミナリヨ)とがあった。
 キリスト教を初めて日本に伝道した人々はイエズス会士であったが、当時のイエズス会の
伝道の方針は上から下へということであり、ザビエルが鹿児島到着後、ひたすらにその日の
あることを夢に描いていたことは、日本の王、つまり天皇との面会であった。しかし
当時の日本の天皇の権威などというものは地を這うがごときありさまで、宮殿の塀は破れるがまま
にまかされ、庭内は近くの子供たちの遊び場になっているという状態であったから、
天皇に絶望した彼等は急きょ方針を転換し、布教の中心を天皇から将軍及び各地の大名へと
切替えていったのである。かくて全国百余侯中の三割にもあたる三十侯が切支丹大名となり、
南蛮文化は当時の日本の、言わば一つの大流行のような風潮を示すに至ったのである。
 この頃の風潮を示すよい例は、切支丹武士が戦場で十字を切り、聖母マリヤの名を唱えて
出陣したところが大いに戦功を得て、しかも死傷がなかったなどという風聞がまことしやかに語られ、
仏教徒の武士までがマリヤ像や十字架をこぞって求める風が流行したのであった。
これはまた、当時の宣教師たちの布教の手段でもあった。こうした過程を辿らせて切支丹に
導いたようである。しかしよく考えてみれば、信仰に由来する戦陣の服飾や動作を、
全くキリスト教の信仰を持たない武士たちが模倣して用い、これによって信徒と同様の奇跡を
期待するというのだから、これはまことに滑稽な話ではあるが、要は、古来より巴状が
軍神を象徴していたように、切支丹時代にあっては十字架が尚武の楯と考えられて、
武人が陣中において神の加護を祈願するのに、十字架が巴にとって代ったということである。
 戦国時代は火砲の伝来によって、戦法が一変した時代である。従来のように刀槍や弓に
よって武家が覇を争うということは最早できなくなった。鎧甲冑も武家の工芸品にしかすぎず、
城砦も自ら火砲に備える必要が生じていたのである。そこで諸武家も相競うて西欧文化の
吸収につとめ、宣教師の引見も繁く行われ、西欧事情の聴取にいとまがなかった。
西欧の文化を摂取するためには、西欧の宗教に帰依する必要もあった。切支丹大名というのは
そうした時代の所産でもある。従って切支丹大名といっても、必ずしも篤信の武士とばかりは
言い得なかったのである。
■その2へつづく
次→◆切支丹と天守閣:その2◆
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