会津の歴史
■ 保科正之
 徳川二代将軍秀忠の弟四子である。保科正光の養子となり、寛永八年(1631)正光の病没によって三万石を家督相続した。同十三年(1636)七月、山形二十万石に、同二十年(1643)七月、会津二十三万石に封ぜられた。家光の遺託を受けて四代将軍家綱を補佐し、殉死を禁じ、諸侯の人質を廃するなどの善政を施した。また山崎闇斎・吉川惟足を聘して学を講ぜしめる一方で、古学派に対する統制を厳しくし、山鹿素行を赤穂に配流した。漆樹を植え、社倉を設けるなど封内における治績を多く、『会津神社誌』『会津風土記』などを編集させた。寛文十二年(1672)、六十二歳で没し猪苗代見弥山に葬られた。神号を「土津霊神」という。
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