会津の歴史 戊辰戦争百話

その後:昨日の敵は今日の友

【平石弁蔵著『会津戦争』(河原勝治翁談)より】

■昨日の敵は今日の友

小原砲兵隊の一人たりし奥田鉱太郎、一日鐘撞堂の土堤に哨兵として立番中、白
昼大町通りを駈走にして再三横切る者ありければ、再び来らば之を撃たんと狙を定
め待ち居る中果して来りければ直ちに之を撃ちしに、命中せしと見え其場に倒れた
り。明治五年に至り氏邏卒(今の巡査)の募集に応じて上京し、芝愛宕下の元仙台
屋敷にて同僚の薩人某(名を忘る)と同居中談会々戊辰戦争に及びしが、某腰部の
弾痕を示して曰く、或日士族屋敷の池に多数の鯉の泳ぎ居るを見、之を捕らんと此
処彼処と捜せど見当たらず、其向ひ屋敷に至り蚊帳を発見し之にて捕らんと、喜び
勇んで走り来りたる其際に撃たれたるものなりと、氏其場所及時刻等を仔細に聞き
たる後、それは私の撃ちたる弾丸なりとて、双方大に笑ひ之より親交一層深きを加
へたりという。
■捕虜を優遇す
本四ノ丁石山九八郎、当時十三才なりしが、籠城中城外に分捕りに出でたる儘、
遂に帰らざれば、敵に惨殺されたるものとのみ思ひ居たりしに、開城の際突然帰り
来りたれば、皆大に安堵せり。石山の話によれば薩人小倉某のために捕へられたれ
ば、いかなる憂目を見る事かと思ひたるに、案に相違し日々大に馳走せられ全く敵
の中に居る様な感をなさゞりしと、尚薩人は若松は鶏、鯉、柿、栗其他野菜の産出
豊富なれば食物には毫も不自由なく、且つ酒も亦鹿児島のものと其味を同うすと大
に喜び居たり云々。