会津の歴史 戊辰戦争百話

◆第百話之三:贋金づくり◆

開城一カ月、まだ焼けあとの生々しい道路上で、白昼から盛んに博奕が行われて
いた。他国から商人とともに入り込んだ無頼の徒が、町民や農民を博奕に誘い、贋
金をかけて巧みに贋金でないものを集めていたという。民政局は贋金の使用につい
て、たびたび注意をうながしてはいるが、贋金の使用はますます多くなり、しかも
会津において製造されているという噂も立ったので、明治二年六月、民政局が廃さ
れて若松県になると、まっさきに贋金をつくるなどという心得違いのないようとの
布告を出した。
その後、贋金製造犯人が若松周辺の離れた山中で捕らえられ、処刑された。その
後も引きつづき厳重な取締りが行なわれたが、その使用は明治五年頃まで続いた。
「若松県庁伺書」によると贋金の種類は二分金・一分銀・二朱金・一朱銀で、若松
県がこれらの贋金を没収して明治三年に大蔵省に納めた金高だけでも十万九千二百
十九両二分という大きな高にのぼっている。
民政局の監察方頭取であった越州の久保村文四郎が、贋金造りの取締にあたった
が、無辜(むこ)の町民を贋金犯として、充分取り調べも行わないで処刑し、旧会
津藩主や藩士の悪口を言ったということなどで評判も悪く、ことに旧会津藩士の激
怒をかっていた。民政局の廃止によって文四郎が帰国することになったさい、伴百
悦・高津平蔵らはこれを越後街道の束松峠登り口に待ちうけていて殺害してしまっ
た。
下手人の伴は、新津近くの慶雲庵という寺に潜伏していたが、明治六年、捕り手
に踏み込まれる直前に自決。高津はこのあとで思案橋事件に関係して処刑された。
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