◆第百話之二:仏(ほとけ)も賊軍扱い◆
平石弁蔵著『会津戦争』より |
■仏も賊軍あつかい |
■会藩の戦死者を阿弥陀寺に合葬せしは、同寺は藩士の菩提寺であるためだ、とい |
う人あるがそれは誤りである。初め会藩の戦死者は其戦死の場所毎に最寄々々に仮 |
葬せしが之を合葬せんと出願せしところ、小田山の西南方畑地俗称五社壇を指定さ |
れた。しかるに同所は古来藩士の馬や罪人を埋葬せし処にて、余り不浄地なれば他 |
の地所をと出願せしに、然らば藩の処刑場は何れにあるかとの問いに、城西涙橋と |
答えた。然らば其近くに葬るべしとの命令なれしば、止むを得ず刑場に近き阿弥陀 |
寺を選んだものである。忠勇の仏も賊軍あつかいには当時の人も落胆したというこ |
とである。 |
■ |
|
▲阿弥陀寺の大仏と七日町の通り(越後街道)―明治37年前後 |
■ |
■大仏唸る |
■七日町阿弥陀寺にある盧舎那仏は、飯盛山仁王門前に在ったものであるが、西軍 |
の軍夫共が乱暴にも悉(ことごとく)皆之を解体荷造りして居る所へ、西軍の将校 |
が来て、 |
「如何いたす」 |
「ハイ之れは青銅ですから横浜の外人に高価にうるのです」 |
「其方共は神仏に迄手をつくるとは怪しからぬ奴じゃ。無礼をすると其まゝにおか |
んぞ」 |
と戒められて其儘になって居ったのを、七日町鍋吹業(屋号丸角)の主人谷彦左衛 |
門が安く買い受け頭、銅、連座等離ればなれのまゝ、二ケ年ほど路傍の畑地に曝し |
置きたるが、やがて鍋にふかんとせし二三日前より、毎夜深更に及ぶと大仏がうな |
り出す騒ぎに町内の者大いに驚き至急会合して相談の結果勿体なしとて、これを譲 |
り受け不手際ながら之を継ぎ合したのが今の大仏である。大仏でさえ非道な目に遇 |
うのであるから、町人百姓の難儀せしことなどは当然である。大仏は明和四年丁亥 |
歳九月、今より百六十年前に出来て飯盛山正宗寺に安置したものである。 |
(旧漢字・旧かな使いは変えました) |
(管理人より) |
■西軍が解体して売ろうとした時には大仏は飯盛山にありました。その後七日町の |
谷彦左衛門に買い取られたため、結局七日町の阿弥陀寺に安置されたようです。平 |
石弁蔵がこれを書いた当時は阿弥陀寺にありました。大仏は青銅製だったため第二 |
次世界大戦で供出されて台座のみになりました。 |
|
|
■ |
次→◆第百話之三:贋金づくり◆ |
|