会津の歴史 戊辰戦争百話

第百話:戦死者の埋葬に奔走した、伴百悦

■伴百悦(ばん・ひゃくえつ)
文政十年(一八二七)、会津藩鷹匠の伴佐太郎宗忠(五百石)の長男として生ま
れた。戊辰の役では萱野右兵衛隊の組頭として越後口に出陣、各地に転戦して偉功
をたてたが、長岡城陥落の後は会津に帰り籠城戦で活躍した。
城の内外でたおれた二千余柱の遺体は、会津開城後も賊軍という汚名のもとに埋
葬することも許されず、腐食するがままにまかされていた。これをみかねた滝沢村
の郷頭横山三郎・肝煎(きもいり)吉田伊惣治らは、明治元年十二月二十九日、飯
盛山に自刃した白虎隊士の遺体四体を妙国寺に仮埋葬したが、これが西軍に察知さ
れ、彼らは罰せられて入牢するという事件も発生した。
百悦は町野主水・高津平蔵らと計り、西軍の参謀らに対して何度かの嘆願を重ね
た結果ようやく阿弥陀寺と長命寺に埋葬することの許可をとりつけた。しかしそれ
は、百悦らの願いとはまったく異なるものであった。会津藩戦死者は罪人として扱
われ、埋葬地も罪人塚、埋葬にたずさわるのも罪人の埋葬にあたってきた人々に限
られた。このため百悦らは自らをその人々の列に落として戦友の遺骨収集にあたり
実に二千三十三体の遺体を埋葬したのであった。
伴百悦らには民政局の扱い方がおおいに不満であった。なかでも旧越前藩士であ
る監察兼断獄(行政官兼裁判官)久保村文四郎の残酷な仕打ちに怒り、同志の中原
成業・一柳訪・井深元治らと計り、彼の帰国する機会に越後街道の束松(たばねま
つ)峠に待ち伏せてこれを斬殺してしまった。百悦はそのまま旧会津領飛地であっ
た新津に逃れていたが、明治三年六月二十二日、新津郊外大安寺村の村松兵に包囲
され、遂にこの地で自害した。
ときに百悦、四十二歳であった。
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