会津の歴史 戊辰戦争百話

第九十六話:世直し一揆(ヤーヤー一揆)

明治元年(一八六八)九月二十二日、若松城は一ヶ月の籠城戦の末、遂に開城と
なった。
会津の落城からまだ十日とたたない十月三日から、会津全域にわたって数万にの
ぼる農民の激しい一揆騒動が起きた。「ヤーヤー」と叫んで打ちこわしを行った世
直し一揆は、封建制度を厳しく批判して、新政府に対しその改革の実行を迫るもの
であった。
各村とも、肝煎と郷頭の村役人宅を打ちこわした点は共通していて、『猪苗代方
部肝煎嘆願書』では、打ちこわしのようすを次のように述べている。
「十月十九日より同二十二日までの内、猪苗代百姓共昼夜、東西より寄集り、鯨波
声を挙げ、貝を吹き、鳴物をならし、私共居宅へ押入、本宅・隠居・土蔵・穀入・
小屋、々々に至る迄銘々柱を切り、穀入れなど焼払候カ所もあり、裏板を抜き、敷
板・畳・建具・家財諸色一々打ち砕き、米・籾を蒔散らし、味噌・醤油の桶のたが
を立切り、御図帳及び諸帳記取出し、焼き払い、袖・袂(たもと)に入易き品々は
強盗いたし、其上命を取り候などと申立剰(あまつさ)へ御城御本丸へ押入り篝火
を焚き、時々鐘を打鳴し、騒乱に及び候始末」
『会津若松市史(昭和41年発行)』より
要求としては、肝煎や郷頭を民主的に選挙によって決めること、土地と年貢に関
しては検地帳・年貢帳・分限帳・質地証文などの名主元帳や旧記証文類の取り上げ
または焼却処分。また、農産物の自由販売、労役の撤廃と労賃支払いなど、各組や
村で多少の相違はあったが、ほぼ共通したものであった。そして、大半要求は貫徹
し、十月三日に始まって以来、約二カ月間吹き荒れた打ちこわしも、十二月一日に
ようやく終息した。
■南部藩の藩主ひきとめ一揆
(【会津戦争】に掲載の太田俊穂氏「敗戦国会津と南部の庶民」より抜粋)
南部藩でも、降伏後、領内で領民たちの一揆が起こっているが、どうも会津藩の
場合とは、反応の具合が違っている。
南部藩の場合、領民たちの反発は、藩や藩主たちへの処罰に対して不満の意志を
示して立ち上がった。会津藩の一揆は、反藩反藩主の世直し一揆だったのに、南部
藩では藩と藩主擁護のために動き出しているのである。
直接のきっかけは、新政府が南部藩に対し、南部二十万石を十三万石に減領し、
伊達領の白石に転封を命じたことだった。この新政府の処罰に対し、南部の領民た
ちは国替中止運動や、国替反対の一揆を起こしたのである。
南部藩主南部利剛の処罰が決定したのは、明治元年十二月のことだが、翌明治二
年の正月には、はやばやと、盛岡城下の町人たちと岩手郡下の百姓たちからの、国
替中止の嘆願書が提出されている。
町人たちはいう。「南部美濃守城下町人共一同嘆願奉り候」と書き出し、「領主
ノ義ハ七百年、永続以来、町人共累代高恩ヲ蒙リ」と藩主と領民たちとの長い間の
歴史的関係を述べ、さらに天明・天保の飢饉の際、藩主からの金銭米穀の援助で領
民たちが助けられたことに触れ、こういう領主と別れることは、父母に棄てられる
のにも似ている。だからなにとぞ従来通り、領主を盛岡に在城させてほしいと切々
と嘆願していた。
また、「奥州盛岡領岩手郡百姓一同」で始まる百姓たちの嘆願書も同様趣旨のも
のであるが、とくに、領民たちは「朝夕領主ノ居城ニ向イ三拝マカリアリ候」と、
藩主に対する尊敬の念と、領民としての幸福感を強調しているのが目立つ。明治元
年の暮から翌二年正月にかけて、南部領内でも百姓一揆が頻発するが、いずれも藩
主引留運動であった。
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