会津の歴史 戊辰戦争百話

第九十二話:家老・西郷頼母

■西郷頼母(さいごう・たのも)
会津藩家老西郷近思嫡男として、天保元年(一八三〇)三月二十四日、若松城大
手口前の藩邸に生まれた。幼名は龍太郎、通称は頼母、諱(いみな)は近悳(ちか
のり)、号は栖雲(せいうん)、後に酔月、八握髯翁(やっかぜんおう)などと称
した。西郷家は藩祖保科正之と同族で、代々家老職の家柄であり、父近思は江戸詰
家老をつとめた。母は会津藩士小林悌蔵の次女律子。
頼母は幼少の頃より学を好み、武芸は溝口派一刀流の剣を学び、甲州流軍学をき
わめた大東流合気柔術の継承者であった。父近思が江戸詰であったため江戸で暮ら
すことが多く二十二歳のときに番頭となった。文久二年(一八六二)三十三歳で家
老職を継いだが、この頃天下の風雲は急を告げ、幕府は従来の京都所司代では力不
足とし、さらに強力な京都守護職を置くことを検討、その白羽の矢を立てられたの
が会津藩であった。
このとき頼母は留守家老として会津にあったが、容保の京都守護職任命の内報を
聞くや国家老の田中土佐とともに急きょ江戸に上った。容保に謁して時局の形勢を
論じ、朝幕の間に立って難局の打開にあたることの容易ならざることを説き、京都
守護職はご辞退あるべしと諌めて、横山主税(ちから)ら他の藩老たちとも最後ま
で争った。
しかし、幕府の政治総裁松平春嶽が就任勧告をつづけ、容保もまた徳川宗家の危
急存亡のときにあたり、一藩の利害をもって論ずべきではないと言って、遂に京都
守護職を受諾することになった。頼母は翌年も上洛し、容保に守護職の辞任を諌言
したが容れられず、十月、病に托して辞表を提出し家老職より身を退いた。その後
の頼母は、若松の東北舟石下の長原村に幽居して栖雲亭と名づけ、心たのしまぬま
まここで五年の歳月をすごした。
慶応四年(一八六八)正月、鳥羽・伏見の変が起きるや、頼母は再び起用される
ことになった。世子喜徳の執事となり、ついで頼母は江戸に上って会津藩邸の後始
末をして会津に帰った。一方容保はひたすらに悔悟謹慎、干戈(かんか)を動かさ
ずに降を乞うたが、世良修蔵らの奸策によってその意は朝廷に達せられず、西軍は
次第に会津に迫って来た。会津藩はやむなく防衛に立ち、頼母は勢至堂口総督を命
じられたが、この後においても尚恭順を説き続けた。しかし、やはり受け入れられ
ず、諸将との間もしっくりしなかったので遂に登城差し止めとなった。
八月二十二日、西軍は戸ノ口原に殺到し、城危うしとみた頼母は一族の者たちを
集め、「事ここに至っては一死難に殉ずるのみであるが、しかし藩主をはじめとす
るわが藩が、これまでに尽くしてきた忠誠心が認められず、会津が賊軍としての汚
名を負うている間は暫くの生を忍んでも、その汚名はそそがねばならぬ」と言って
一子吉十郎だけを伴ってあえて登城、冬坂峠(背炙峠)方面の防備に赴いていった。
一方頼母を城に見送った妻の千重子をはじめ一族の者二十一人はその翌二十三日、
西軍の郭内侵入を目前にみながら、全員自決して果てた。
この日、城下に火焔の挙がるのをみた頼母は冬坂峠より急きょ引き返して入城し
たが、藩主の無事なる姿をみておおいに喜び、「この危急存亡のときには一致協力
して国難に当たらなくてはならぬ」と言って城中の者共を励ましたが、一方「事こ
こに至ったのは藩主を輔けた者の責任である」と言って同僚を非難したため、主戦
派の中には頼母を亡き者にしようとする空気もみえはじめた。容保はこれをいたく
案じ、頼母に越後口から帰国する陣将に伝言する使者という口実を与えて城から脱
出させた。
このとき頼母は、途中で同僚の簗瀬三左衛門と会って城にとどまるよう勧められ
たが、それを丁重に断り、年来の厚情に対して厚く礼を述べ感慨無量の面持ちで悄
然としながら城を去った。頼母が城から出るとまもなく二人の討手が後を追ったが
しかし彼らは頼母の余りにも厳しく、真っすぐなその心情を哀れんだのか故意に別
の途をとり、頼母には会わなかったと、帰ってから虚偽の報告をしたという。
頼母はこのときも僅か十一歳になったばかりの一子吉十郎を伴い、越後口から引
き揚げてくる萱野権兵衛、上田学太夫らに藩主からの命令を伝え、自分は米沢から
仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流した。榎本の軍艦開陽丸に乗艦して箱館に赴い
たが、頼母はこの艦中で会津の開城降伏の報を聞くことになる。
北海道における戦いは箱館を中心として行われた。翌二年五月十一日、西軍の将
山内顕義、黒田清隆らは未明の午前三時を期して総攻撃を開始、十三日に頼母は榎
本に対しても降伏することを勧めたが、やはり容れられなかった。しかし五月十八
日、その榎本も遂に降伏、頼母もまた自ら西軍の陣営に下った。七月十四日、箱館
において降伏した会津藩士十六名に対し、軍務局から古河藩外三藩に分けて幽閉す
る命が降りた。頼母も一旦は東京に押送されたが九月改めて館林藩に幽閉された。
翌三年二月に幽閉が解かれると、伊豆月ノ浦近くに謹申学舎を設けて自ら塾長と
なり、里人らの指導に当たった。(後年この子弟の中から北海道開拓の拓聖とまで
いわれた依田勉三らが輩出した)また頼母は、西郷の姓を本姓の保科に復し、保科
頼母と称するようになった。明治八年八月三日磐城国の都々古別(つつこわけ)神
社の宮司となったが、十一年六月に職を去った。理由は頼母が西郷隆盛の謀反(西
南の役)に与していたという疑いを持たれたためであった。
辞職後は東京に移り、在京の旧藩士小森駿馬・加藤寛六郎、館林幽閉中に世話に
なった塩谷良翰の宅などを往来していたが、明治十三年二月二日、旧藩主容保が日
光東照宮宮司となるや、頼母も旧主に従って日光の禰宜(ねぎ)となって容保を補
佐した。同二十年四月、神官が廃せられるや一旦若松に帰り、同二十二年四月三十
日、改めて岩代霊山神社の宮司に輔せられた。霊山神社は北畠親房・顕家・顕信・
顕時・守親の五柱を祀り、明治十九年に別格官幣大社となった神社で、三代目宮司
が保科頼母であった。霊山神社の宮司を努める傍ら、自身の希望から県の師範学校
の嘱託となり、古人の格言などを講義した。
明治三十二年四月一日、古稀を迎えた頼母は、二十一年にわたった神官生活をや
め、さらに一切の公職からも離れて若松に帰り、旧藩邸から百メートルばかり離れ
た通称十軒長屋と呼ばれる陋屋(ろうおく)に下女のお仲と二人でひっそりと暮ら
した。
明治三十六年四月二十八日午前六時頃
あいづねの遠近人(おちこちひと)に知らせてよ
保科近悳今日死ぬるなり
の時世を残して静かに息を引き取った。死因は脳溢血、享年七十三歳。
ちなみに一子吉十郎は明治十二年八月九日に二十二歳で病没している。
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