◆第九十一話:家老・萱野権兵衛の切腹◆
■萱野権兵衛(かやの・ごんべえ) |
■会津藩家老千五百石。萱野小太郎長裕の子として生まれた。名は長修(ながのぶ)。
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藩の侍大将をつとめる家柄であったが、父長裕の代から家老職に列せられた。容貌 |
は秀麗、性質も温良恭謹で若い時から人望があった。幼少の頃から武道の錬磨に励 |
み、藩中指折りの剣士で一刀流溝口派の達人として知られた。また兵学にも精通し、 |
家を継ぐ前から藩校日新館にあって武講の教官を勤めていた。読書は漢学のほか好 |
んで歴史を研究し、謡曲や茶道にも通じ、特に茶道は秘奥に通じた。 |
■戊辰の役勃発するや、藩の重臣の多くは陣将として国境に派遣された。権兵衛も |
越後蒲原の会津領と、幕府預かり地(魚沼郡)の防備のため水原にあったが、間も |
なく城に帰り藩の重務を処理することになった。 |
■八月二十一日、西軍によって東部国境が突破された時には城外に出て戦った。田 |
中土佐・神保内蔵助の両家老は自刃、西郷頼母は城を去り、国老の主席として、ま |
た戦陣の将として籠城戦を指揮した。 |
■明治元年(一八六八)九月二十二日の午前十時、若松城はついに開城となり、権 |
兵衛は藩主容保とともに降伏文書に署名した。西軍の間では直ちに会津藩の戦争責 |
任を追求する会議が開かれた。そして論議の末、「藩主松平容保は門閥の出身であ |
るから、彼が逆謀を企てたとは思われない。従って会津藩により首謀の者を出頭さ |
せるべし」との命が下された。このとき会津藩から名乗り出たのが萱野権兵衛であ |
った。 |
■「会津藩では家老田中土佐・同神保内蔵助・同萱野権兵衛の三人が戦争を指導し |
た。しかし土佐と内蔵助はすでに切腹しており、権兵衛が謹んで裁きをうける心底 |
である」と申し出て、会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けたのである。 |
このときの権兵衛の心底には、萱野家の祖が流浪中保科正之によって召し出され、 |
今日の萱野家があるのだから国難にあたってその恩義に報いようとする一心があっ |
たという。 |
■権兵衛はまもなく、江戸の謹慎所に送られる容保の一行と共に会津を離れ、江戸 |
久留米藩邸(有馬家)に幽閉された。そして明治二年(一八六九)五月十八日、朝 |
議は権兵衛に対し切腹を命じたのである。この日権兵衛は、有馬中将邸でいつもの |
朝より早く起きた。そして月代の座についたが、添役はいつも同宿の浦川篤であっ |
た。権兵衛は浦川に「永い間お世話になった。今日は襟元の毛を見苦しくないよう |
に、特に念入りにお願いする」と言うと、いつもと少しも変わらぬ静かな態度であ |
ったという。 |
■やがて有馬家から丁重な酒肴を賜った。しかし権兵衛はそれを辞退、茶を戴きた |
いといって茶を所望した。そしていつものように自分で点じて同室の人たちに配り、 |
最後に自分も静かに喫した。ついで権兵衛は、自分の死によって一刀流の奥義の絶 |
えることを憂え、室内には金物が置かれていないところから、手許にあった竹の火 |
箸を用いて井深宅右衛門に奥義を伝授した。 |
■やがて権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科邸から迎えが来た。権兵衛は有 |
馬家に厚く礼を述べるとそこを出た。保科邸には梶原平馬と山川大蔵(浩)が来て |
いた。権兵衛が到着すると、保科正益から本日の介錯人は剣客の沢田武司であるこ |
とが披露された。梶原と山川は権兵衛に、旧藩主容保と照姫からの親書を渡した。 |
権兵衛がおし戴いて封を開いてみると、容保からの親書には「私の不行き届きによ |
りここに至り痛哭にたえず。その方の忠実の段は厚く心得おり候」とあり、また照 |
姫からの親書には |
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夢うつつ思ひも分す惜しむそよ
まことある名は世に残れとも |
■ |
の一首が添えられていた。権兵衛はねんごろな書状に謹んで礼を述べ、「覚悟の事 |
であるから、少しも悲しむところではない」と言って、むしろ喜びの心を述べた。 |
■やがて自刃の時刻がきた。権兵衛は保科家、松平家の家臣たちに別れをつげ静か |
に別室に入った。しばらくして沢田が帰ってくると、「事は無事おわりました。死 |
に臨み従容自若、顔色すこしも変わらず、誠に立派なご最期でございました」と報 |
告した。そして沢田が権兵衛の最期について語ったところによると、権兵衛は沢田 |
の刀をみて、貴方の常に差している刀かと問うたので、実は保科家から忠臣をもて |
なす道として特に下された旨を話すと、権兵衛は鑑定したいといって沢田から受け |
取り、抜いてみて貞宗の名刀ではないかと反問したという。保科家から下された刀 |
はまさにその通り貞宗であった。 |
■権兵衛はおし戴いてそれを沢田に返すと「最期に臨んでよい目の保養をした。見 |
事にお願いする」といって神色自若、一糸も乱れなかったという。権兵衛と最後ま |
で一緒だった浦川も「その朝も言語・動作すべて平生と変わらず、いま死地につく |
人とは思われない静かな表情で、別に遺言する事もないと述べられた」と語った。 |
時に権兵衛享年四十一歳。 |
■保科家からは、直ちにこのことが軍務局に報告された。権兵衛の遺体は「保科家 |
でよきように処理せよ」との事で、柩は浅黄の木綿に包まれ、貨物のようにして芝 |
白金の興禅寺に運ばれて葬られた。法名を報国院殿公道了忠居士という。 |
■権兵衛の遺族には松平容保から金五千両が下賜された他、自刃見舞いとして銀二 |
十枚、喜徳からは銀十枚、照姫から銀二枚を賜わった。この年、松平容大に外桜田 |
門に狭山藩邸を賜わったが、松平家ではその邸の一部をさいて権兵衛の遺族らを住 |
まわせた。 |
■会津天寧寺の先塋地には、萱野権兵衛夫妻の墓と、一子郡(こおり)長正の墓が |
ある。 |
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