◆第九十話:謹慎お預け◆
■明治二年(一八六九)正月、猪苗代に謹慎中の藩士たちは、信州松代藩の真田家 |
(後に東京に変更される)に、塩川謹慎の藩士たちは越後高田の榊原家にそれぞれ |
「永の預け」を命ぜられ、九日に出立の達しがあった。藩士たちの不安、動揺は深 |
刻であった。高田への護送は手縄つきだとか、高田到着と同時に切腹を仰せつけら |
れるなどと、不吉な風説が乱れ飛んだ。不安にかられ、夜陰にまぎれて脱走する者 |
があいついだ。 |
■出発の朝、高田お預け組には、一人に二両の手当金と菅笠・蓆が渡され、別れを |
惜しむ家族の群がる中を、前後を約百人の越前藩士に警護されながら歩く。途中は |
坂下・野尻・津川・山ノ内・分田・加茂・三条・地蔵堂・出雲崎・柏崎・黒井に泊 |
まり、一月二十一日に高田の浄光寺に着いた。この間の九日は吹雪に見舞われて難 |
儀の連続した旅であった。この日到着した第一陣は四百名。後続と合わせ総勢千七 |
百四十三名の高田での謹慎生活が始まった。 |
■しかし榊原家の扱いは極めて鄭重で、毎日の献立には酒や餅が出され、出発時に |
おける切腹の風説などは消えた。一ヶ月も過ぎると班別で自炊をはじめることにな |
り、諸道具が下げ渡された。つれづれを癒すために経書講釈・歌道・茶道の稽古事 |
なども許されるようになった。だが、いつ終わるとも知れない不安は消しがたかっ |
た。その上、六月から七月の半ばにかけては毎日のように冷たい雨が降り続き、袷 |
(あわせ)を着るほどの天候不順が続いて、脚気などの病人が続出、七月十五日ま |
でに実に七十余人もが病死した。 |
■謹慎生活も半年を過ぎると、だんだん苦痛と懶惰(らんだ)の気が覆いがたく、 |
鬱屈のあまりに脱出する者が相次ぎ、百人余りの脱走者をかぞえた。 |
■また十月頃になると、猥りに町方に出てアゲバイ(遊里)に遊ぶ者まで出るよう |
になった。これには高田藩でもほとほと困り、もし遊里に出入りする者があれば、 |
その者の身分を足軽次の席に仰せつけるなどの布令を出し取締まるようになった。 |
だが脱走者は一向に後をたたず、十月二十日には二十人もが脱走して召し捕らえら |
れている。 |
■一方東京謹慎組の藩士たちは、護国寺・講武所・外桜田松平豊前屋敷・真田家下 |
屋敷・芝増上寺の宿坊などに分散させられて監禁生活を送っていたが、ここでも脱 |
走者が続出し中には捕らえられて斬られた者もあった。 |
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