会津の歴史 戊辰戦争百話

第八十九話:家老・佐川官兵衛

官兵衛は幸右衛門直道の子として、天保二年(一八三一)九月、若松城下に生ま

れた。名は直清、初名は勝といった。鍛刀をよくし「兼直」の鍛冶銘を持ち、自ら
の小柄などを鍛えていたという。官兵衛の遠祖直成勘兵衛は高遠にあって保科正之
に仕え、食禄一千石を食んでいた。祖父の直温、父の直道は物頭であったが、父は
会津戦争で戦死、子の直諒も日露戦争で戦死した。
官兵衛は幼時より勇敢活発、武術をよくし、安政年間(一八五四−六〇)の江戸
勤務中本郷大火の際に、幕府方の火筒隊(火消)と刃傷沙汰におよび、相手方の二
人を斬り多数の者に傷を負わせた。当時の“いろは四十七組”の火消には、各組に
旗本の武芸者が二人ずつ消防頭となって配置されており、それらを斬ったのだから
事は重大であった。しかし相手方にも不都合なことがあり、事は示談によって済ま
されたが官兵衛はただちに謹慎を命じられ会津に帰された。
文久二年(一八六二)、藩主容保が京都守護職となるや官兵衛は藩主に従い、元
治元年(一八六四)には藩士の子弟を選んで別撰隊が組織され、京都市中の警護に
あたり“鬼佐川”の異名をとった。官兵衛は京都において結婚したが、その当日、
槍の名人を学校に招いて酒宴を張り、そのまま酔い潰れて寝てしまった。後に弟の
又三郎、又四郎の二人から痛烈に諌言されたが、このとき官兵衛は両手を膝の上に
おいて叱られる子供のように素直であったという。
官兵衛の愛刀というのが伝世しているが、会津住長道の作で長さが二尺一寸。そ
の中子に「慶応二年六月十二日西郊薬師堂河原ニ於テ二ツ胴裁断シ自ラ之ヲ試シ速
カニ平砂ニ入ル佐川官兵衛」と刻まれている。薬師堂河原というのは今の神指町地
内にあった会津藩の処刑場のことで、二ツ胴裁断というのは文字通り二人の胴を一
度に両断することである。
慶応三年(一八六七)十月、将軍徳川慶喜は大政を奉還、容保もまた六年の長き
にわたった守護職の辞表を提出し朝命を待った。そしてこの間、容保は退いて熟考
し、改めて開戦の一策あることを進言した。しかるに十二月、朝廷はにわかに命を
下して政体を変革し、幕府を廃して長州の罪を許したため慶喜は二条城に入り、容
保もまたこれにしたがった。官兵衛は部下を率いて君側の宿衛にあたり、さらに慶
喜ら大坂に下るにおよんで官兵衛もこれに随従した。
慶応四年(一八六八)正月、鳥羽・伏見の役が勃発。官兵衛は林砲兵隊に協力し
て奮戦右眼に負傷したが屈しなかった。しかし、このとき幕軍は既に戦機を失って
おり、戦いは大敗北に終わった。戦後官兵衛は江戸に退き、三月若松に戻った。
戦火会津に及ぶにおいて越後口防禦の任につき、四月十九日、精鋭の朱雀四番隊
長として越後に向かった。長岡藩総督河井継之助と相謀り、西軍の参謀長州藩の山
県有朋、薩摩藩の黒田清隆らによる長岡城奪取の計画を小千谷の要地片貝において
破り、さらに五月、長岡南方の朝日山を占領したが、長岡城は西軍の手に落ちた。
官兵衛はその後も善戦を続け、河井継之助らとともに作戦して長岡城を奪回したが
西軍の増援部隊の上陸、新発田藩の降伏、新潟港の陥落などで苦戦に陥り、長岡城
は再び敵の手に落ちた。かくて越後口で軍を指揮すること百十余日、白河口の敗報
で藩主に召喚された。
若松に戻ってからは若年寄に任ぜられて若松城の防衛にあたり、いくばくもなく
して四百石を加増され、禄一千石の家老に任ぜられ軍事を委任された。しかし、こ
のときは既に若松の城は西軍の重囲下にあり、城内の米蔵は戦火によって焼失し、
兵糧は欠乏をきたすようになっていた。八月二十九日、官兵衛は糧道を確保するた
めに自ら精兵を率いて城外に出、怒涛のごとく押し寄せてくる敵軍を相手として各
地に転戦した。とくに長命寺の戦いでは父が重傷を負って間もなく戦死した。その
ほか住吉河原の戦いでも多大の戦果をおさめ、一ノ堰村方面の戦いにおいても勝利
を得るなど、米代一ノ丁の小笠原邸に仮の本陣を置き、城外からの糧道の確保をは
かった。
九月も半ばを過ぎたころ、城内では降伏の議が進められていたが官兵衛の知ると
ころではなかった。彼はその間においても高田を占領し、また田島へも転戦した。
やがて城内では降伏の議が内定、九月十八日、手代木直右衛門・秋月悌次郎の両名
が使者となって、高田に赴き官兵衛に降伏を勧めた。だが官兵衛は「この戦いは君
側の姦を除くためでありまた西軍のなすところに憤然たるものがある…」といって
仁和寺の宮にまみえて正しきを明かそうとしたが果たせなかった。
九月二十六日、若松城の開城に及んでも、官兵衛はなおも大内宿にたてこもって
南方の敵と戦い、容保城を出ると聞いてようやく降伏し、藩主にたいして微臣たち
の頑愚にして補佐の道を誤ったこと、およびその任をまっとうできなかったことを
詫びた。また、萱野権兵衛が戦争の全責任を負って切腹を命じられるや、官兵衛は
これに代わろうとしたが許されなかった。
幽囚の後は若松に閑居し、従容自適、ほとんど世事を忘れた生活をしていたが、
明治六年、征韓の議が否決されるや、世の不平士族の行動はにわかに先鋭化し、世
情騒然となった。同七年、川路大警視は巡査を旧会津藩士のなかに募ったが、官兵
衛は逡巡して態度を決しかねていた。しかし、使者は再三にわたって官兵衛を説得
し、子弟らも官兵衛を擁立したので官兵衛は遂に意を決し東京守護巡査となった。
明治十年、西郷隆盛は反乱を起こし、熊本城を包囲した。官兵衛は遠征軍総督警
視桧原直枝の補佐として巡査隊を率いて従軍した。官兵衛は現地に至り戦況をつぶ
さに見た結果進撃の急たるべきことを痛感した。二重嶺の賊塁を攻めるために豊後
口より進発、坂梨峠で七時間にわたる死闘を展開、左腕に貫通銃創を負った。自ら
手拭を裂いて傷口を縛って前進を続けたが、またまた二丸を受けて壮烈なる戦死を
とげた。このとき官兵衛は「佐川官兵衛」と銘うった政宗の刀を携えていたほかは
警視庁の記章に「勝軍」の二字を書いた指揮旗をもっていただけで、余の品は一切
身につけておらず、既に死を覚悟しての進撃であったといわれる。行年四十七歳。
墓は大分市にあり、戦死の地熊本県黒川村には彼の碑が立っている。
官兵衛二ツ胴斬りの愛刀は、越後口での戦いから若松に帰る途次、どういう理由
があったかは不明だが玉梨(金山町)の栗城家に託された。太平洋戦争で栗城源吉
が飛行兵となり、満州国公主嶺の飛行戦隊に配属されるに際し護身刀として所持し
たが、そのご本人は満州からジャワ、ニューギニアと転戦、遂に昭和十八年九月二
十一日午後五時十五分、ニューギニア・ロング島南方マーカム湾グレチン岬の海上
で散華、戦後、護身刀のみが帰還した。
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