会津の歴史 戊辰戦争百話

第八十四話:城南の戦い

九月十四日、一瀬要人・萱野権兵衛らに率いられた町野源之助の朱雀四番隊、西
郷刑部の朱雀寄合二番隊、木本慎吾の青龍士中三番隊、原隼太の白虎寄合一番隊は
熊倉付近で戦ったのち城南方面に転戦して来た。これに対し、会兵の有力部隊が城
南に集結しているとは知らない西軍の諸隊は、翌十五日早朝城南の各村々を占領し
て若松城内への糧道を絶とうとして薩摩の兵は東部の青木から御山へと進み、その
南の堤沢へ出ようとしていた。佐土原の兵は同じく青木から中央部の中野付近に進
出し、一堰(いちのせき)をうかがいさらに西部の長州・小倉の兵は飯寺から徳久
方面に向かっていた。
こうして東西両軍は、南御山―中野―徳久の線で遭遇することになり、戦闘が開
始された。最初のうちは会兵の方が兵力優勢で、各所において激戦が展開された。
慌てた西軍は後方に増援を要請、援軍が到着して西軍が優勢になると、こんどは背
後から城兵が出撃するといった具合で両軍互角の戦いのうちに日没となった。西軍
は青木・徳久の宿営地に、会兵も一堰に後退したが、この日の戦闘で西軍は薩摩・
長州・佐土原・小倉・宇都宮、ならびに長州の支藩の報国隊士などに合計三十名の
戦死者と四十八名の負傷者を出したのに対し、会兵は戦死十四・負傷三十二と西軍
より損害は少なかった。しかし主将の一瀬要人が徳久で重傷を負い一堰で死亡した
のをはじめ、西郷刑部・原隼太の両隊長が戦死、木本慎吾・菊地順蔵は負傷するな
ど有力幹部を多数失った。結果、その後の作戦遂行に多大な影響を及ぼすことにな
る。
西軍にとって、一堰付近の会兵をこのままにして見過ごす事はできなかった。十
七日、彼らは十五日の戦いを反省して、青木方面から薩摩・佐土原の兵が一堰東側
を攻め、飯寺方面からは土佐兵を主力に、米沢・安芸・新発田の兵が二隊に分かれ
て南下し、一堰西側と北側から猛攻を加えた。
会兵は、砲兵を加えて徳久・中野方面から押し寄せる優勢な西軍に押され、まず
面川村に退却、さらに雨屋村にまで退却することを余儀なくされた。白虎寄合一番
隊は新隊長の望月辰太郎指揮のもとに奮戦、町野源之助の朱雀寄合二番隊・結義隊
は雨屋村薬師堂近傍の山上からこれを援けて防戦したので、西軍の先頭部隊は苦戦
を強いられ、平地の会兵は最後の勇を奮って逆襲に成功、石村付近の西軍を撃退し
て雨屋に引揚げることができた。しかし兵力の少ない会兵に、もはや追撃する余裕
もないばかりか雨屋付近に集結している事も危険であったので、会兵はやむなくそ
の日の夕刻のうちに大川を渡り西方の福永村に退いたのだった。
この日の戦闘によって西軍の損害は戦死四・負傷八であったのに対し、会兵の方
は意外に多く、戦死三十四・負傷六を出したうえに、西軍に一堰―堤沢の線以北の
制圧を許し、若松城への糧道は完全に遮断されてしまったのである。
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