会津の歴史 戊辰戦争百話

第八十三話:鐘楼守・長谷川利三郎

若松城は堅固な名城で、西軍も容易には攻め陥とすことができなかった。城壁は

高く、西軍は城壁の銃眼を目標に小銃戦を交え、また、各藩の砲兵は専ら天守閣や
鐘楼の破壊に腐心して、日夜砲弾の雨を集中させていた。だが鐘楼から刻々と打ち
鳴らされる鐘の音は少しも時を違えず、戦塵外に超然とする風に見えたので、西軍
兵士からみればことのほか癪に障る存在で、ますます砲撃を集中させてきた。かく
して無数の砲弾は鐘楼上に落下、その北にある隅櫓は中にあった火薬に引火炎上し
て、柱を残すのみとなった。そこで城兵らは幕をとりだしてこれに巻きつけ、あた
かも健在であるかの風をよそおった。
当時の鐘楼守は、長谷川利三郎(六石五斗二人扶持)という七十二歳の老人であ
った。城兵らは老人の労をねぎらいその勇を賞したが、利三郎は「鐘楼は私の陵墓
であります。弾丸に貫かれるような事があっても、ただ瞑するだけです。私には何
の不安も、思い残す事もありません。あなた様こそこのような危険な場所から早く
立ち去り、自分の部署をお守り下さい」といって、尚矍鑠(かくしゃく)たるもの
であった。
一方、城外の遠隔地に避難した者たちは、この鐘の音を聴いて城の無事なる事を
知り、城外に戦う兵士たちも、皆この鐘の音に勇気付けられていた。しかるに籠城
二十三日目の九月十五日、西軍の総攻撃の中、利三郎は遂に流れ弾に斃(たお)れ
てしまった。鐘を撞く任はただちに上野磯次郎(一石五斗二人扶持)が継いだが、
これまた翌十六日に被弾、壮烈な死を遂げた。享年四十二歳であった。そこで面木
三平、小野吉右衛門らが家老山川大蔵に請い、その後を継いで時を報じ続け、開城
に至るまで鐘の音は一度たりとも絶えることがなかった。
後年、薩摩藩士種子島清之助の語った所によると、西軍の兵らも根気負けし、遂
にはこれを重宝がるようになり、セコンド(懐中時計)を持った者は鐘の音で時間
を合わせ、他の者たちも鐘の音によって時刻を知るありさまだったという。
▲現在鶴ケ城にある鐘楼
鐘楼は、戦後一旦甲賀町郭門の石垣の上に移され、のちにまたこの場所に
戻されました。その時に建てかえられています。(管理人)
次→◆第八十四話:城南の戦い◆
ホーム 戻る 次へ 一覧