会津の歴史 戊辰戦争百話

第八十二話:怨敵退散を祈願

若松の城下西郊の川原町に日蓮宗妙了山大法寺がある。この寺は保科正之が最上
より会津移封となるに際し、同宗の浄光寺らと共に会津に随従した寺である。寺領
として百五十石を戴き、藩からの待遇は特に篤かったが、幕末時における僧侶の名
は日清と称した。
日清は、藩士坂井惣八の五男として天保三年(一八三二)城下で生まれたが、生
まれながらにして体が弱く、八歳のときに大法寺に徒弟として出された。
しかるに、慶応四年(一八六八)八月二十三日、若松城は西軍の包囲を受けるに
至り、日清は法・俗、累代の恩を報ずるのはこの時とばかり、法具を携えて城に入
った。そして籠城三旬、このあいだ西軍砲撃の焦点となっていた天守閣最上階にあ
って、怨敵退散祈願のために読経を続け日夜怠る事がなかった。連日連夜、激烈な
る砲弾をあび身は硝煙に鎖ざされるといえども、しかし読経の声は朗々として絶え
る事がなかった。城内の士卒らはこれを聞いて、士気益々緊張したばかりか、日清
は遂に微傷をも負うことなく落城を迎えたという。
城中には僧籍にあった人が何人かいたようで、平石弁蔵著『会津戊辰戦争』の文
中にはこの他にも、
「城中二老尼あり、誠真・民了といふ、或は妙心・妙見とも称す。容敬歿後剃髪し
て佛に事ふ。孤城包囲を受くるに至り連日連夜齋戒して読経をなせり」
とある。
大法寺伝によると、戊辰戦乱の際、堂宇悉(ことごと)く兵火に罹り烏有に帰し
時勢の変遷と、檀徒の離散と減少とにより以来十幾年、堂宇なく荒墟頽廃に帰する
に任せたりとある。日清のその後の消息は不明だが、明治四年、東京において没し
たという。「守義院悌順日清聖人」と諡(おくりな)された。
現在の堂宇は、十八世中興の祖飯田日定上人が、明治十四年三月仮に庫裡を建立
して以来、大正・昭和の変遷を経て今日の復興を見るに至ったものであるという。
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