◆第八十一話:籠城婦人を指揮松平照姫◆
■照姫は天保三年(一八三二)十二月十三日、上総飯野藩二万石九代保科正丕(ま
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さもと)の三女として生まれた。正しくは熈(てる)といった。同十三年、十歳の |
とき故あって会津藩八代藩主松平容敬の養女となった。嘉永元年(一八四八)七月、 |
父正丕病没。嗣子正益(後に弾正忠)が幼かったので容敬は懇請によってその後見 |
となった。 |
■嘉永三年(一八五〇)照十八歳のときに備前中津十万石奥平大膳大夫昌服に嫁い |
だが、安政元年(一八五四)二十三歳のときに離婚となり、江戸の藩邸に戻った。 |
その辺の事情は詳しくはわからないが、昌服は若くして病没している。 |
■慶応四年(一八六八)一月、鳥羽・伏見の役で幕府軍は大敗し、二月、会津藩邸 |
の総引き揚げで照は初めて会津入りした。八月二十三日からの籠城戦では、六百有 |
余の婦女子を総指揮して、炊出し・傷病者の看護・城内に撃ち込まれた砲丸の処理 |
(火災の防止)などに力を尽した。 |
■昭和四十一年発行の『会津若松市史』には次のように籠城戦のようすが書いてあ |
る。「こうしたなかで、藩主容保の義姉照姫を中心に奥女中・藩士の妻女が、片時 |
も休むことなく負傷者の看護・炊事・弾丸の製造にあたった。負傷者の治療にあた |
ったのはオランダの軍医ポンペに西洋医学を学んだ旧幕府医学所頭取松本良順で、 |
ガーゼ・包帯・アルコールを使用し、食料不足にもかかわらず病人には牛乳・魚・ |
鳥・肉・牛肉などを与えた。しかし医薬品の不足に悩まされ、戦傷者の多くは膿毒 |
症らしい症状で死亡した」 |
■開城後、照は藩主容保らと共に郊外の妙國寺に蟄居したが、容保・喜徳は十月十 |
九日、新政府の命令で東京護送となった。照はそのまま妙國寺において冬を越し、 |
翌二年、東京青山の紀州藩邸にあずけられることになり、お付きの者二十一名と共 |
に二月二十九日会津を出発、三月十日東京に到着した。 |
■同年五月十八日、朝議は会津戦争の責任者として萱野権兵衛に切腹を命じたが、 |
照はこのとき権兵衛に親書とともに、 |
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夢うつゝ思ひも分す惜むそよ
まことある名は世に残るとも |
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の和歌一首を贈り、その遺族には自刃見舞いとして銀二枚を贈った。 |
■その年も師走に入った三日、飯野藩の運動によって飯野藩お預け替えとなり、二 |
十七年振りで実家の藩邸で起居することになった。 |
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このゆふへ虫の音なからふり出でゝ
さらに身にしむ秋の雨かな |
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■照は明治十七年(一八八四)二月二十八日、小石川の保科家において病没。享年 |
五十三歳であった。法名を照桂院という。書・和歌を能くし、松平容保は照からて |
ほどきを受けたといわれている。 |
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