◆第八十話:籠城婦人の決心◆
■籠城戦で城内に入った婦女子らは六百有余名であったといわれる。連日、城内に |
砲丸や銃丸の撃ち込まれる中で、男子らは徒(いたずら)に死する事を欲せず、弾 |
丸の落下するごとにこれを避けるのを常としていた。だが婦人らは最初から死を決 |
して入城して来た者ばかりで従容として弾丸を恐れず、男子の弾丸を避けるのを見 |
て、男子でありながら弾丸を恐れるのかといってかえって冷笑したという。 |
■こうした籠城戦の中で、婦人らは食糧の炊出しから傷病兵の看護、城内に撃ち込 |
まれた砲丸の処理(火災の防止)など、一意専心、あらゆる労役に服したが、山川 |
健次郎は婦人らの活躍をその著書『会津戊辰戦史』の中で次のように述べている。 |
■「守城以来、屡に落下し来りし焼弾は径六寸許(ばかり)の円弾に孔あり。此よ |
り火を噴出して殿屋を焼かんとして、水を注ぐも消滅せず、是に於て、衣類を以て |
之を覆ひて水を注げば忽ち消滅す。奥殿に仕へし老女伊藤牧野以下の侍女力を尽し |
て綿衣或は蒲団の綿を出し、毎に之を水中に湿し、此の弾の落下する時は、婦人等 |
馳せ集りて之を覆ひて消滅せしむるを常とし、危険を感ぜざるに至れり」 |
■また、山本八重子は籠城婦人の決心を、後日次のように回顧している。 |
■「それで籠城婦人は何れも、多少なりと怪我をして他の厄介になる様では、男子 |
の戦闘力を殺ぐ様になるから、其時には自刃をしやうといふ覚悟で、脇差か懐剣を |
持たぬ人はありません。妾(わらわ)も介錯する人をもたのんで居ました。こんな |
訳で仕度も身軽にし帯なども決して解けぬ様、細紐にて緊かり結んで居ました。そ |
んな風に何れも今日か明日か、最後の時には見事に、死際を立派にしやうと決心し |
て居ましたから、樹の枝にかかって死んだ婦人があるなどといふことは大変なまち |
がひと思ひます。妄(みだり)に文飾するから真相を脱するのであります。御承知 |
の如く何れの家庭にも、戦死戦傷者を出して居ます。妾の弟の三郎(二十一才)は |
正月三日伏見で、父の権八(六十一才)は九月十七日一ノ堰にて戦死をして居ます。 |
籠城中の婦人は大概こんな境遇の人ばかりであるから、何れも死花を咲かせやうと |
決心して居ったのであります」 |
平石弁蔵著『会津戊辰戦争』に書かれた山本八重子談■ |
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■また籠城中の子供たちの様子は次のように語られている。 |
紙鳶は弾雨を犯して城上に舞ふ |
■「籠城中子供は凧を揚げて遊んで居ました。凧は春風昇天などといふて専ら子供 |
等の春の遊びとのみ思ふて居ましたが、晩秋ながらなかなかよく高く飛んで居まし |
た。其他戦ゴッコ、鬼ゴッコなどと無邪気に遊んで居ましたが、焼弾が来ると争ふ |
て之を拾ひ御握りと交換して貰ふて喜んでいました。随分危険でありますが、慣れ |
切って巧みに之を消しとめ再び城中の用に供してくれました」 |
平石弁蔵著『会津戊辰戦争』「戦後の断片」より■ |
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