◆第七十九話:山本八重子の奮戦◆
■山本八重子は、弘化二年(一八四五)会津藩砲術指南山本権八の娘として、郭内
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の米代四ノ丁に生まれた。自らも砲術を身につけ砲術師の川崎尚之助と結婚した。 |
(戊辰戦争後に離婚して後に新島襄と再婚) |
■慶応四年(一八六八)八月二十三日早朝、西軍が若松の城下に殺到した際、八重 |
子は武家の娘として籠城を決意。着物も袴もすべて男装(断髪するのは入城後)に |
して七連発のスペンサー銃を肩に担ぎ戦列に加わった。 |
■九月十四日、西軍は午前六時を期して小田山・舘・慶山の他に外郭門にも砲列を |
布き、天守閣を攻撃の目標に定め一斉に砲撃を開始した。昼夜をわかたず砲弾の雨 |
を降らせたが平石弁蔵著『会津戊辰戦争』によると、八重子は後年の回顧談の中で |
この日の攻撃の事を次のように述べている。 |
■「敵の総攻撃は九月十四日の早朝六時に始まり、毎日夕の六時頃迄は実に凄まじ |
い勢ひで砲撃しました。無論小銃弾も三方面より非常に来ましたが、大砲の音に消 |
されて少しも聞えません、只バッバラッと霰(あられ)の如く絶えず来て居ました。 |
それに頭上で爆裂するかと思ふと、却下に砂塵を揚げる、瓦は落つる、石は跳ぶ、 |
城中は全然濛々たる硝煙で、殆んど噎(むせ)ぶ様な有様、然し誰一人逡巡ふもの |
もなく、寧ろ反って勇気百倍、子供等は湿れ莚(むしろ)を以て縦横に馳せ廻って、 |
焼弾を消しては御握りと交換して貰ふ。婦人は弾薬の補充に奔走し或は傷者の運搬 |
救護等、其多困多難の有様はなんとも話になりません。妾も一寸の暇を見て、 |
有賀千代子さんと共に握飯を盆に盛り大書院小書院の病室へ運搬中、轟然一 |
発却下に破裂し、砂塵濛々として眼も口もあけず、呼吸も出来ず、暫時佇み漸く目 |
を拭ふて見れば、千代子さんも煙りの裡に立っては居るが其顔は全然土人形の怪物 |
そっくり、これには妾も可笑しくて抱腹絶倒をしました。然し千代子さんも妾の顔 |
を指さして笑ひこけて居ました。御握はと見ると又驚きました。全く蟻塚をそっく |
り盆に載せた様に塵一杯になって居たので、これには落胆しました」 |
■八重子はこのようにして、弾丸飛雨のなかを籠城女性に弾薬の製法を教え、敵の |
砲丸をひろいあげると、藩主にその性能を説明するなど常に沈着であった。 |
■その頃、会津藩の砲兵陣地は豊岡宮(現豊岡墓地)の一角に布かれていたが、お |
りから場内には壮士なく苦戦を強いられていた。八重子はこの砲兵陣地に馳せつけ |
ると、砲術師の夫川崎尚之助を助け、小田山上の敵砲とよく応戦し一時は敵の砲門 |
を沈黙させるほどの威力を発揮したこともあった。しかし城兵の善戦もむなしく、 |
九月二十二日若松城は遂に開城と決した。八重子は開城を目前にした夜、暗涙にむ |
せびつつ二之丸の雑物庫の白壁に月光を浴びながら簪(かんざし)で、 |
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あすよりは何処の誰か眺むらむ
??????????なれし大城に残る月影 |
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の歌を刻み、痛哭の涙をのんだのだった。 |
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