会津の歴史 戊辰戦争百話

第七十五話:住吉川原の戦い

出撃隊総督の佐川官兵衛は、八月二十九日の長命寺攻撃が不成功に終わるや、大

部の兵を城に帰還させ、自分は手兵を連れて米代一之丁の小笠原邸に本営を置き、
各自の部署を定めて次の機会を待った。郊外の材木町には田中左内の率いる砲兵隊
を出して警戒していたが、日光口の西軍が本郷より若松に侵攻しようとしているこ
とを知り、これへの奇襲を企て、九月五日、飯田大次郎隊及び水戸脱走の朝比奈弥
太郎・市川三左衛門・筧忠大夫らの兵を合わせて約四百を得てこれを柳原に伏せ、
官兵衛自らは手兵四百及び大沼城之助・田中左内の率いる両砲兵隊と共に、材木町
住吉神社及び秀長寺付近の林中、あるいは民家に伏して西軍の到来を待った。
四日夜本郷に宿営した西軍は、翌五日早朝、大川を渡って飯寺(にいでら)・材
木町に集結した。軍監中村半次郎は、先に城下に進攻していた白河口西軍主力と連
絡をとるため自ら薩摩の一隊を率いて柳原を迂回、越後街道から城下に入って西軍
本部に行き連絡をとった。正午ころであったというが、このころ秀長寺の砲兵は飯
寺・材木町の西軍に向って俄然砲撃を開始した。彼我の間は僅かに四、五十間。会
津の諸隊は一斉に起って攻撃に転じた。軍監不在の西軍は休憩中で、戦闘に対する
備えは全くしていなかったから驚愕おくあたわず、全軍騒然となって右往左往する
のみであった。
住吉川原の戦いの推測図
▲住吉川原の戦い(推測図)
時に関山方面に向かっていた進撃隊は、唐木辰太郎の朱雀隊と合して高田にあっ
たが、西軍の兵(薩摩・芸州・肥前・宇都宮・中津・人吉・黒羽・館林・大田原・
今治)が若松城下に向かうと聞いてこれを追っていたので、この砲声を聞いて、西
軍の背後からこれを衝いた。ここにおいて西軍の狼狽は極みに達した。だが時がた
つにつれて兵力の優勢な西軍は威力を回復してきたので、会兵は攻撃を止め、西軍
の遺棄した銃砲・弾薬・食糧・毛布・金円等多大の鹵獲品を得て、日没前に城中に
引き揚げた。
この日の戦闘で西軍の損害は、薩摩兵が戦死一、芸州兵が戦死一・負傷八、肥前
兵は戦死一・負傷四、中津兵が戦死一・負傷三、宇都宮兵が負傷三、館林兵が戦死
四・負傷四、人吉兵が負傷三、黒羽兵が戦死四・負傷六、大田原兵は負傷二を出し
たのに対し、会津兵は戦死一・負傷五のみで、城下における諸戦闘中唯一の勝利で
あった。
この戦闘で西軍は輜重用の人馬・夫卒・小荷駄など多くを失ったので、各藩とも
にその後の補給に大きな困難を来たすことになった。
しかし、翌六日には西軍により、飯寺において会津藩の食糧の輸送路を断たれ、
これによって高田方面からの物資の搬入が不可能になった。
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