◆第七十四話:郡上藩凌霜隊◆
■慶応三年(一八六七)十月、世は大政奉還となり郡上藩(四万八千石)藩主青山 |
幸宜は朝命に従って上京した。藩論はなかなかまとまらなかったが、国元の家臣は |
次第に勤王に傾き、翌四年二月十一日には朝廷への帰順を決定、恭順の誠を尽くす |
誓書を差し出した。 |
■これに対して江戸藩邸には佐幕の一派があり、江戸家老の朝比奈藤兵衛は幕府軍 |
の勝利した時のことを考えて十七歳の息子茂吉を隊長とする藩士四十七名をひそか |
に脱藩させ、幕府軍側の一隊として凌霜隊を結成させた。 |
■彼らは四月十日、江戸は本所中の橋菊屋に集合、江戸湾を船で出発、海路北上し |
て四月十二日、千葉県の行徳に一度上陸、再び船で江戸川を溯って前橋に上陸、会 |
津にむかったのである。一行は途中小山で戦い、宇都宮に奮戦し、激戦につぐ激戦 |
をへて日光街道から塩原に出て、塩原温泉守備の際は妙雲寺本堂天井の菊の紋章に |
筆でバツ印をつけてここにも行跡を残した。横川に戦い、田島に至り、大内峠の激 |
戦では二名の戦死者を出した。九月三日の関山の戦いでは、会津の青龍足軽二番隊 |
(隊長諏訪武之助)とともに苦戦を展開、林定三郎が前額部を撃たれて即死した。 |
この日は高田まで進んで宿泊、九月四日には大川を渡河して一路若松の城下へと向 |
かった。 |
■若松の城下には既に八月二十三日に西軍が侵攻しており、城は籠城戦にはいって |
いた。副隊長の速水小三郎は「敵の脇の下をくぐり股をくぐってでも城下に入れ。 |
殺されたら魂となってでも行け。びくびくするでないぞ。平気な面をしておれば誰 |
でも味方だと思うだろう」と叱咤しながら、城へ城へと決死の進撃をした。「グズ |
グズしてはおられない」と疲れた身体に鞭打って進んだ。そしてその日の夕方、若 |
松城の西口、河原町口郭門にたどりついたのである。 |
■河原町口の郭門にたどりついたのはよいが、郭内は二十三日の西軍の侵攻のさい |
焼き打ちにあい、屋敷は殆ど焼け落ちていた。それでも郭門を入った北側に辛うじ |
て焼け残った屋敷(小笠原邸)が一軒だけあった。会津藩士小山伝四郎遊撃隊長の |
指図によってここに宿泊し、九月六日見事入城をはたしたのであった。 |
■若松の城内では、籠城戦に入ったのちの八月二十七日頃、白虎士中一番隊・二番 |
隊の生存者を中核とした再編白虎隊が編成されていた。日向内記が再び隊長となっ |
ていたが、凌霜隊はただちに日向内記の配下に編入され、再編された白虎隊士らと |
ともに開城の日まで西出丸の防衛にあたった。 |
■会津開城後は囚人同様にして故郷の郡上八幡に護送され、禁固の処罰を受けて入 |
牢、死罪を言い渡されたのだったが、明治三年二月に釈放された。 |
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