会津の歴史 戊辰戦争百話

第六十七話:日向ユキと一族の会津戦争

日向ユキは会津藩士日向左衛門(四百石)の二女で、母は飯沼粂之進(四百石)
の娘ちか。嘉永四年(一八五一)五月十八日、八人兄妹の三番目として若松城郭内
の米代三ノ丁に生まれた。母は三十二歳という若さで死去したが、ユキはこのとき
三歳であった。母の兄は飯沼時衛といい、その二男は白虎隊蘇生者の飯沼貞吉であ
り、母の姉は西郷頼母夫人で一族とともに自刃した千重子である。
慶応四年(一八六八)の戊辰の役時、ユキは十八歳であった。八月二十三日の朝
五ツ刻(八時)早鐘が乱打され、城門に駈け付けたが既に堅く閉じられ、城に入る
ことはかなわなかった。ユキは祖母、継母、弟二人、妹と六人で、敵の弾丸の下を
くぐり抜け、市外に逃れて御山在の肝煎栗城伝吉という百姓の家に世話になった。
父左衛門は同日朝の大町口郭門の戦いで重傷を負い、郭門付近にあった、母親の
実家である加須谷邸内の竹やぶに入って自刃した。兄新太郎はまだ弱冠二十歳であ
ったが、遊撃二番隊の半隊頭をつとめて城下各地に転戦し、九月八日の朝、濃霧の
中で材木町の南端柳土手で銃撃戦を展開、腰に敵弾を受けて立つことができなくな
った。やむなく尻もちをついたままで射撃をつづけているうちに、今度は肩を撃ち
抜かれて発砲もできなくなった。もはやこれまでと部下に介錯を命じたが、敵兵の
包囲するところとなり、部下は新太郎の首を稲田の稲束の中に隠して後退した。
戦後、雪が解けてから、ユキは祖母の実家加須谷邸の竹やぶで日向家の紋の付い
た羽二重の着物を発見。継母を同行して確かめた結果父の遺骨に相違ないことを確
認、浄光寺に埋葬した。その後さらに兄新太郎の部下より最期の模様を聞き、兄の
首を探しに出たところ、村人から犬がその首をくわえて来たので処置に困り小川に
流したということを聞き、遂にその首を見つけだして、これもまた父の墓と並べて
葬った。
やがて会津藩は斗南に移封となり、日向家の者たちも二十日かかって野辺地に着
いた。廃藩後は北海道に渡り、ユキは明治五年に開拓使内藤兼備と結婚、会津には
二度と帰らなかった。昭和十九年、九十四歳で没したとのことである。
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